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「側室=将軍のお気に入り」ではなかった…江戸城の大奥にいた数百人の女性から「夜のお相手」が選ばれるまで

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genre : ライフ, 歴史, テレビ・ラジオ

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だから、こうして多くの側妾に囲まれていた将軍を、一概に「色男」とは評せないが、さらに、その夜の営みに関しては、側妾にも将軍にも同情を禁じえない面があった。

大奥で警戒されたのは、側妾が将軍に政治関係の要望を伝えることだった。将軍が情にほだされて判断を誤ってはいけない、というわけだ。

このため、将軍の寝床に中臈が呼ばれたときは、「御添寝」といって、将軍と中臈が営んでいるすぐそばに別の中臈が寝て、さらに次の間には御年寄が寝て、翌朝、御添寝した中臈が年寄に、将軍と交わった中臈の言動を報告していたのである。

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それも制度として習慣化していれば、将軍も中臈も嫌ではなかったのかもしれないが、なんとも奇妙なことが行われていたのだ。

ぜいたくすることしか楽しみがない

そんな大奥は、よく知られているように、奢侈(しゃし)であることがたびたび問題になった。3代将軍家光が鷹司信房の娘を京都から迎えて以来、歴代将軍の御台所は基本的に、天皇家や皇族、公家の娘だった。その御台所が京都から上層の奥女中を連れてきたから、大奥の習慣や雰囲気は自然と京都風になった。それが奢侈にもつながり、江戸初期からたびたび倹約するように言い渡されながら、実現しなかった。

奢侈が改まらなかったのは、大奥での生活に、ぜいたくするくらいしか楽しみがなかったから、ともいえる。

奥女中が奉公に上がるときに差し出す誓紙には、「生涯相勤め申すべく候こと」と記され、いったん奉公すると、手紙を出せる範囲さえ親族に限定された。

中級以下の女中たちは、途中で暇を申し受けることも不可能ではなかったが、上臈や御年寄、中年寄、御客会釈、御中臈らは、基本的に病気になっても暇をもらえなかった。このため、彼女たちからぜいたくを奪えなかったのだろう。

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前述したように、ただでさえ激しい勢力争いが日常の大奥である。ぜいたくまで奪って奥女中たちの不満を鬱積(うっせき)させるのは、得策ではない。なにしろ、そうした不満はとんだ災害も引き起こしていた可能性があるのである。