東京・銀座には約6000坪もの住所不明の土地が存在する。なぜそれだけの番外地が生まれたのか。筑波大学名誉教授の谷川彰英さんの新刊『増補改訂版 東京「地理・地名・地図」の謎』(じっぴコンパクト新書)より、一部を紹介する――。(第2回/全2回)

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関東大震災と東京大空襲で姿を変えた

太平洋戦争の空襲で焼け野原となった東京は、その後、高度成長期へと突入し、めざましい復興を成し遂げる。国の威信をかけたオリンピックというビッグイベントも手伝って、街は大きく姿を変えていく。

明治時代から近代化の先端をいく存在だった銀座もまた、大変貌を遂げることとなった。もともと銀座一帯は、江戸時代に埋め立てられてできた土地で、そこに川や堀をつくって巡らせ、廻船を使って物資を運び込んでいた。

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しかし、この水運によるにぎわいは、鉄道や車などの陸上交通が発達するとともにすたれていくことになる。三十間堀川、京橋川、汐留川、さらには江戸城の外濠(そとぼり)など、いくつもあった川や堀は、つぎつぎに埋め立てられていった。

最初の変貌は、1923(大正12)年の関東大震災のあとに訪れた。震災で出た膨大な灰燼の処理に困り、川や堀に投げ込んだのである。

そして決定打となったのが、東京大空襲だ。銀座界隈で焼け残ったのは服部時計店(現・和光)、松屋、松坂屋くらいで、大半は焦土と化し、結果、大量の瓦礫が至るところに積み上げられた。行き場もなく復興の妨げとなった瓦礫は、近くを流れる川や堀へとつぎつぎ投げ捨てられたのだ。

なぜ銀座に「○○橋」という地名が多いのか

水辺の景観が失われたばかりか、水は淀みひどい悪臭を放つようになり、衛生面の問題も生じたため、本格的に埋め立てられることが決まったのである。舟が通れず、もはや浄化も困難であることから、「不要河川」と判断されてとられた策だった。

さらに、東京でのオリンピック開催が決まると、それに向けて準備が進むなか、わずかに残っていた一帯の河川も埋め立てられて、代わりに道路が整備された。