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なぜ有楽町駅前の「銀座インズ」には住所がないのか…東京・銀座に広がる「6000坪の番外地」の正体

source : 提携メディア

genre : ライフ, 昭和史

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こうして、川や堀を舟が行き交い、橋のたもとには柳が揺れる江戸風情は過去のものとなったのである。たしかに今の銀座を見ても、橋も架かっていない場所に、呉服橋、鍛冶橋など「○○橋」という地名がたくさん残っている。

ラジオドラマ「君の名は」により、全国に名を馳せた数寄屋橋も同じ憂き目にあった橋である。1952(昭和27)年から2年間放送され、のちに映画化もされた男女の運命を描いたドラマだ。空襲の最中、主役の男女が出会い、再会を約束した場所が、数寄屋橋だった。数寄屋橋の名は、交差点名として今に残され、その面影は、近くにある小さな公園には「数寄屋橋」と書かれた碑でしか確認できない。

約6000坪もの土地の住所が未定のまま

銀座界隈の変貌ぶりは、当初、未来都市のシンボルとして好意的に見る人が多かった。川や堀の埋め立てによって生まれた土地は、売却され、戦後の復興事業にひと役買ったし、1960年代の高度成長期には、その頭上が高速道路のルートにもなり、銀座を大きな街に成長させてきたことはたしかである。

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しかし、この発展に問題がなかったわけではない。今に至るまで引きずり続けている現実的な問題が存在する。それは、東京の一等地にもかかわらず、住所がない場所が生まれたことである。外濠と汐留川の埋め立てによって誕生した約6000坪もの土地の住所が未定のままなのである。

番外地が生まれてしまったのには訳がある。

埋め立て前の外濠は、濠の中央部分で中央区と千代田区を分ける境界線として使われていた。一方の汐留川も、川を挟んで中央区と港区の境界としていた。水が流れていたころは、当然ながら、そこに住所を定める必要はない。

ところが埋め立て地ができたことで、話がややこしくなる。

「それは昔の話だろう。どこに区境を引くか決めればいいだけのことではないか?」と簡単に思うかもしれないが、土地の帰属問題は難しいのが常である。区と区の話し合いが何度も持たれたが、なかなか合意に達しないまま、今日まで時間が過ぎてしまっている。結局その間、住所不明のままなのである。