1ページ目から読む
2/6ページ目

能登半島地震で漁師の遭難がなかった理由

 輪島港で漁の中心になってきたのは海士(あま)町の人々だ。375年前の江戸時代、加賀藩主に土地を拝領して定着し、独自の文化を受け継いできた漁師集団である。

 海士町の自治会に入っている約300世帯のうち半数が漁に出ている。

 海士町自治会の前会長で、刺し網漁をしている上浜政紀さん(60)は、船を出そうと思わなかった。日本海の津波は来襲が早い。「震源が近ければ、発生から10分あるかないかで押し寄せる」というのが漁師の常識だ。それほどの短時間で沖に出るのは難しいと考えていた。

ADVERTISEMENT

 津波が港内に入れば渦を巻き、船を出すタイミングが遅れれば転覆しかねない。港から出られたとしても、波高が高ければ海が壁のようになって船を襲う。操舵を誤ると呑み込まれる恐れがあった。

 実際に2011年3月11日に発生した東日本大震災では、沖に出ようとして亡くなった漁師がかなりいた。沖合で海の壁に突っ込んだ漁師の中には「あの恐怖は二度と味わいたくない。次は津波が来ても沖に出ない」と言い切る人もいる。

 能登半島地震で、そうした漁師の遭難がなかったのは、地盤の隆起で海岸近くの波高が抑えられた面もあったのだろうか。

港の真ん中では、沖に出られずに立ち往生した船が

「命があれば、船ぐらいどうなってもいい」。上浜さんは家族と高台に逃げる方を選んだ。

 能登半島地震の発災翌日、上浜さんは小学校の避難所から港へ向かった。

 港が見える場所まで来た時、「あれっ、船がない」と驚いた。いつもならズラリ係留された漁船が見えるのに、岸壁しかないのである。

 さらに近づくと、海面が下がって船体が見えなくなっていたと分かった。

「津波の影響で潮が引いた」と話す漁師もいたが、上浜さんは「地盤の隆起でこれほどまでに岸壁と海底が上がったのか」とびっくりした。

 上浜さんの船のすぐそばでは、船底が海底についた船が斜めになっていた。港の真ん中では、沖に出られずに立ち往生した船が放置されている。

港の真ん中で漁船が立ち往生していた(輪島港)

「大変なことになった。復興は難しくなる」。すぐにそう思った。

 海士町の漁師が漁業権を持っているのは、沖合48kmにある舳倉(へぐら)島の近海や、途中の七ツ島の周辺などだ。

 上浜さんはノドグロと、海士町ではハチメと呼ばれるメバルを狙ってきた。

 しかし、そもそもの話として、漁業を巡る環境は厳しくなっていた。もうからないのである。

 ノドグロは、料亭などが高値で引き取る。だが、海に網を入れても1匹しか獲れないこともある。それゆえハチメを獲るのだが、経費などを差し引くと、ギリギリの状態だった。

 燃油代は国際相場の影響を受けて上がっており、節約のためにエンジンの回転数を抑えなければならない。漁場は遠く、時速15ノット(27.8km)ぐらいは出したかったが、時速10ノット(18.5km)で我慢するようにしていた。