先般、92歳まで生きた親父が永眠しました。

 残念だと思うよりは、ようやくくたばったかという気持ちが先に立ちます。

 破産しかかって事業から引退して20年ほど経過しており、最後のほうは見舞いに訪れる人も少なく、近親者とお世話になった方とで小さな見送りの会をやり、川を渡っていきました。戦後を支えたニッポンの中小企業オヤジの典型例であって、比喩でもなんでもなく事実として読売ジャイアンツが負けた日は理不尽に殴られる幼少期を送りました。

ADVERTISEMENT

「お父様が危篤です」という予行演習が合計6回も

 ここ2年ほどは、親父の入院先から深夜早朝業務中問わず私の携帯電話に着電しては「お父様が危篤ですので、ご親族にお声がけの上早めにお越しください」という予行演習が合計6回も行われました。やめろよ。しかし、最初のほうこそ「ついにこの日が来たか」と沈痛な気持ちで病院に駆け付けたものの、毎度のように昭和一桁で生き残った者特有の頑健さを発揮して、何事もなかったかのようにバイタルを回復させ、一般病棟に舞い戻り、医師が首をかしげながら退院準備の話し合いをする、の繰り返しでありました。

©山本一郎

 生前、まともに親父と最後に交わした言葉は「一郎。お前は何をしに来たんだ。俺は元気だから早く帰って仕事をしろ」でありました。見舞いに行くたびに、加齢でしょぼくれた親父と「まだ生きてたのか」「死んでたまるか、お前が死ね」「うるせえ順番守って早く死ね」みたいな江戸っ子特有の応酬はしておりましたが、いざ本当に死んでしまうと「あっ、やっぱり死ぬことはあるんだな」という感じでした。

 生前は女性関係も金遣いも派手過ぎて、事業から引退に追い込まれるころには億単位の借金が残っていたため、担保に入った実家に住んでいるお袋が追い出されるのは酷だというだけの理由で何の得もない私が全額弁済させられ、そこから足掛け14年に渡る介護の生活が始まりました。ほどなくお袋も大病をして身体が不自由になり、結婚してくれた私の家内の両親も早期のすい臓がんや身体障碍があって介護でしたから、親世代4人を丸ごと介護で支え、4人の子どもも育てるというしんどい人生を送っております。