病院から「あっという間に亡くなりました」
親父が死んでみて蓋を開けてみれば、戸籍に残っている前妻との異母姉兄がおり、また、どこで作ったのか不明の義理の兄や姉、弟も名乗り出て来られて、私は山本一郎なのに親父からすれば六男というあたりが昭和を生きた中小企業オヤジあるあるです。しかし、親父には遺産など(おそらく)100円もなく、そんな親父の事業や借金の尻拭いをしたのも亡くなるその日まで介護を完遂したのも私であります。意外と孝行息子だったんじゃないでしょうか。年2回お墓参りもちゃんとやってるし、施設代も立て替えてたし。
そんな破廉恥な親父だからきっとろくでもない死に方しかしないだろうと半分期待を込めてずっと介護していました。ですが、あれだけ予行演習まで付き合わせておきながら、早朝6時半に病院から「死にそうだから病院に来い」と言われて「またか」と思いつつ着替えていたら、10分後に「あっという間に亡くなりました」との連絡が。なんだよ、こういうときだけさっさと死にやがって。
しかも、その死因は往年の持病ではなく、結核でありました。
思い返せば、親父も山本家分家においては長男と扱われていましたが、昭和初期の衛生状況の悪さもあって、親父の上にいた3人の兄たちは、いずれも結核で命を落としています。いまでこそ、結核でそのまま亡くなる人は減りましたが、92歳になって、おそらく日和見感染的にもともと持っていたであろう結核菌が老衰による免疫力低下と共に湧きだして、ついに頑健だった親父を死なせるに至ったというのは時代を感じます。私が新型コロナウイルスなど感染症対策は公衆衛生としてしっかり取り組んだほうがいいと強く思っているのは亡くなった親父の兄妹たちや、同じ時代を生きた人たちの多くが感染症によって命を落とした背景も強く影響しているからです。
唯一、親父が話してくれた戦争の記憶
また、親父は戦争についてもあまり多くを語りたがりませんでした。親父は戦中派であって、徴兵・従軍の経験こそないものの、もともと船乗りの多い山本家にあって、日清戦争、日露戦争に駆り出されたり、第二次世界大戦でどっか船に乗って出かけてそのまま遺体も帰らず戦死したことになったりしている親族はたくさんいます。かつて実家には、戦死した親族への国からの令状みたいなのもたくさん壁にぶら下がってましたが、親父の代になると「戦争を思い出すと酒がマズくなる」という極めて個人的な理由で全部外して蔵にしまいこんでしまいました。
それでも唯一、親父が話してくれたのは当時住んでいた中央区八重洲も東京大空襲に遭い、疎開していなかった山本家一同は逃げ惑って何とか無事に生き延びたものの、親父の学校で同窓だった子どもが一人、また一人と死んで「あいつも死んだか」と墓に団子を供えてやっていたことでした。