文春オンライン

戦後をずっと生きてきた親父の追憶…14年間続けた“4人の介護”から少し解放されて感じたこと

2024/03/21
note

親父や山本家の戦争体験から理解したこと

 子どものころ、食事中のテレビを禁じられていたのにたまたま放送していた『ガラスのうさぎ』の映画を観て、親父がぽつりと「実際、こんな感じだった」としみじみ言っていたのは、いまでも記憶に深く残っています。

 子どものころ、親父が昔のことを話したりニュースで湾岸戦争の話を観たりするたびに「男は難事では武器を持って立ち上がらなきゃならん」と言い始めるときと「戦争で死んでも何も残らないからさっさと逃げろ」と語るときとがあり、親父も矛盾してらあな、と思ったりしました。ただ、私も大人になってみると、戦争など大変なことに直面したとき、その時点の立場で人間は容易に考え方を変える生き物なのだと理解できるようになって、そんなものかと割り切れるようになりました。

 例えば、私がまだ家内と小さい子どもを育てているときはロシアや紛争状態にある中央アジアに出張する際はなるだけ一人でいたほうが安全、それが家族を守るためだから、と思うことも多かったんです。ところが、介護がしんどくなり子どもも4人目が生まれるとひとくちに家族を守るといってもいろんな選択肢を優先順位に基づいて判断していかなければならなくなります。日本は戦争をする国であってはならないが、常に戦争を回避できる環境ではなくなったときどうするか、ということまで考えるようになったのは、やはり親父や山本家の戦争体験から身の処し方を考えておくことの大事さを理解させられたからじゃないかといまでは思っています。

ADVERTISEMENT

※写真はイメージ ©itudemonイメージマート

とんでもねえ親父だったのに穏やかに死んでいって許しがたい

 気がつけば、あれだけ威圧的で怖い存在であった親父が手がけた海外貿易や産業廃棄物の仕事をいまでも引き継ぎ、親父が無駄に作った大口の借金は2度にわたって弁済して完済し、最後は親父の車いすを押して日々の介護も途中までやって、逆に親父の派手な女性関係や浪費癖を受け継ぐことなく家内を愛して一直線というのは世代というのは怖ろしいものだなとも感じます。

 何より、私自身が、いまでいう妾腹なわけですよ。家庭ある前妻から、お袋が親父を寝取ってできた子どもが私なのであってね。当然、お袋も親父の浮気で異母兄弟が増えたことを知って悲しんでいたのも見ていたし、親父は親父でそれが男の甲斐性だと信じて疑わなかった面があった。とんでもねえ親父だったからこそ、とんでもねえ死に方になるのが勧善懲悪の世界なのに、私に見守られてベッドの上で穏やかに死んでいった親父ってのも許しがたいんですが、なにぶん神は取引なさらないので致し方なかろうとも思います。

関連記事