――彼女の存在感はすごいですね。教室で小便をするシーン。あれはすごいですよね。
石井 あれは神波さんのアイデアです。
――ああ、そうですか。あそこがリアルだと思ったし、あの時代日本映画ってああだったなと。今だったらやらないんじゃないかと。
石井 私はついていけない(笑) 。
日活映画で8ミリスタッフがメインスタッフで参加
――(笑)。でも、クレジットには大屋さんがプロデューサーで入っていて。
石井 あと、松井君(※注2)という、のちに監督もやっていますが、彼が助監督の一番下で入っていました。
――それは狂映舎サイドで。
石井 はい。それから狂映舎で非常に力になっていく秋田光彦君が、彼も大屋君の大学友達ですけど、脚本を書いていたのですが、確か宣伝プロデューサー的な立場で参加したはずです。
――それってすごい。日活映画で8ミリスタッフがメインスタッフで入ったというのは、すごい事件だったと思います。
石井 自分が監督するんだというつもりだったので、やっぱり忸怩たる思いといいますか。
実質は共同監督ではなく「監督補佐」だった
――監督をやれると思って行ったら、監督ではなかったと。
石井 実質は監督補佐でしょうね。澤田さんが非常に立派な方で、ものすごく立ててくれて、共同監督だということで守ってはくれたんです。いろいろ教えてくれようとはしたんですけど、「私、それは知ってます」という感じだったんで。
だけど、当時の日活撮影所には、(石原)裕次郎さんもいたし、渡(哲也)さんもいたし、大林(宜彦)さんがいて百恵・友和の映画を撮ってましたし、(高倉)健さんが『野性の証明』(1978)を撮っていて、薬師丸ひろ子さんも…僕は知らなかったんですけど。小っちゃい女の子が自転車に乗ってフラフラやってきて、かわいそうだなという。そういう、ものすごい熱気と輝きのある時期で。