石井 最初の第1回目。その悔しさを創作エネルギーに変えて(笑)。リベンジに燃えて。で、次に『突撃!博多愚連隊』(1978)で入選したのかな。その時に森田芳光さんの『ライブイン 茅ヶ崎』や、長崎俊一さんの『ユキがロックを棄てた夏』というのがあって。
――一緒に上映されたりしてつながりができてきたんですね。
石井 上映会同士のつながりよりも、PFFの影響は私は審査員になってからの方が大きかったかもしれない。
アップデートしながら続けていることの素晴らしさ
――審査員同士のつながりがあったということですね。
石井 僕らの時は、審査員は自分がいいと思うものを1本だけ推すというやり方。そうしたら、やはりみんな考えが違うんですね。
――みんな選ぶものが違いますよね。
石井 面白かったです。大島(渚)監督の激しさとか。普段は非常に優しい立派な方ですよ。みんな一緒に飲みに行ったりもしたし。
だけど、自分のポリシーをかけて何か発言したりする時は、絶対譲らない。「そんな作品を選ぶんだったらこんな賞はやめだ!」とか「そんなのクソだ!」とか、ものすごく激しい。むき出しにされるので、すごいなと思いました。
ほぼ全員違うことを言うので、それが面白くて、そこからすごくいろんなことが広がったような気がします。PFFの存在は大きいと思います。
――大きいですよね。
石井 ずっと継続してアップデートしながら続けているということが素晴らしい。
卒業制作がそのまま劇場公開されるという大事件
――それで『サンダーロード』で卒制なのに商業映画にしましたね。東映系で公開しました。
石井 そうですね。それも上板東映の小林さんのつながりで東映の上の方に見せたら、面白いということになって。試写の時から非常に反応がすごかった。
日活の『高校大パニック』で屈辱を味わっていましたので、題材的にもものすごく吟味していましたし、本当に苦労したんですよね。完成できないんじゃないかとどん底の時期もあったし、倒れかけたこともありました。
ものすごく苦しい時に長谷川和彦監督と電話で話をしたりして、それが自分の心の支えになった。自分でやり始めたことは必ず最後までやると決めた。