母が包丁を振り回すようになった理由
私の見立てでは、このときの母は、不安で仕方がなかったのではないかと思う。
一番大きな要因は、私たちのパワーバランスが大きく変わってきたことだ。
考えてみると月日が流れるにつれて、私の体はぐんぐん成長していった。同級生に比べて成長が早かった私は、小学5年生にもなると母の背丈を追い越し、身体は大人とまったく変わらなくなっていた。それは私と弟が手に入れた唯一の、母に対抗できる武器でもあった。
母はもはや、力ずくで私たちを思いどおりにすることは不可能になった。母は、しだいに体が大きくなっていく私たちを、少しずつ脅威に感じはじめていたのではないだろうか。
そうやって、母の地位も家庭内で微妙に変化していった。私の身体が大きくなった今、昔みたいに私に肉体的虐待をすることはできない。
延々と続くと思っていた母の支配は、この頃から揺らぎはじめたのだ。母はきっと、このパワーバランスの転換に動揺していたのだろう。
そして、そこに父の単身赴任が重なった。今思うと、それはもはや力なき母の反乱であったのかもしれない。この家の大人は、もはや母だけなのだ。
突然不機嫌になって荒れ狂うことも
母はそうして、最後に残った自らの力を振り絞り、子どもである私たちに権力を誇示したかったのではないか。母が発狂するきっかけは、いつも気まぐれに映った。ちょっと前までは笑っていたのに、突然不機嫌になって火が付き、荒れ狂うこともあったからだ。
その頃の母は、いつも行き場のないエネルギーを持て余していた気がする。人生の報われなさ。そして、深い悲しみと怒り――。それが突如として爆発するのだ。
テレビを見ていると、洗い物をしている母が突然皿を投げ出し、包丁を持ってダイニングにやってくる。「こんなこと、やってられるかー!!」と絶叫しながら――。
そもそも母は料理が大嫌いだった。専業主婦になんてなりたくなかった。それなのに、いつもいやいやキッチンに立っていた。私は何千回、何万回と耳にタコができるほど、その話を聞かされていた。