幼少期より実の母親からあらゆる虐待を受け続けていた、ノンフィクション作家の菅野久美子さん。『母を捨てる』(プレジデント社)は菅野さんが母親の呪縛から逃れるため人生を賭けて「母を捨てる」までの軌跡を描いた壮絶な一冊だ。ここでは本書より、一部を抜粋して紹介する。
教師だった父の単身赴任が決まり、母と弟との3人暮らしが始まると、母にある異変が起きた。包丁を取り出し、「みんな、殺してやる!」と叫び、暴れまわって――。(全2回の2回目/はじめから読む)
◆ ◆ ◆
父の単身赴任後に起きた母の“変化”
父は3月末になると車にありったけの荷物を詰め込んで、山奥の僻地校に赴任していった。そうして、母と弟と私の3人だけの生活がはじまった。
朝がきて、学校に行き、昼がきて、3人で夕食を食べる。父が単身赴任でいなくなってから、母はすこぶる機嫌がよかった。
しかし、しばらくすると母に大きな異変が起きはじめた。
母は気に食わないことがあると、突然激情に駆られ、台所から刃物を持ち出し、振り回すようになったのだ。それは、決まって深夜に起こった。
母はよくキッチンの包丁差しから、刃先が少し錆びついた出刃包丁を取り出してきて、「みんな、みんな、殺してやる!」と絶叫し、暴れ、私たちを追い回した。
「お母さん、やめて!」といくら泣き叫んでも終わらない
母の振り下ろした包丁の刃先が私の横で、スッと空を切る。ヒヤリとする。私は怖くてしかたなくて、ただただ泣きじゃくった。鼻水と涙が、ぐちゃぐちゃに混じり合っているのがわかる。なんとか命だけは守らなきゃと思いながら、「お母さん、やめて!」と叫ぶ。
しかし、いくら私が泣き叫ぼうが、母はありったけの力で、容赦なく何度も刃物を振り回す。まるで、この崩壊した家庭そのものを切り裂こうとするかのように――。父が単身赴任で不在になってからというもの、そんなことが幾度となく繰り返されるようになった。
なぜ母が、私たちに対して刃物を向けるようになったのか。母は暴力衝動を抑えきれない自分を、しきりに更年期障害のせいにしていた気がする。「お母さん、ちょっと最近おかしいのよ」と。しかし、それは母が自らでっちあげた言い訳に過ぎず、免罪符だったのではないか。