「先に出版されたのは海外文学の翻訳や大学での研究をまとめたものでしたが、小説自体はずっと前から書いていました。いずれ文学の世界で生きていくと決めていたんです」
そんな大野露井さんが満を持して上梓した初の小説集『塔のない街』。
日本を逃げ出すようにして英国にやって来た〈僕〉が、〈エッフェル塔がない〉ロンドンで、週210ポンドの部屋を借り、街の住人となったいきさつを描いた短編「劇場」で幕を開ける。そして1年後、〈僕〉が吝嗇(けち)な大家に不遜な置き手紙を残し、その部屋を出ていく7作目「塔のある街」で終幕。あいだに挟まっているのが、文通ミステリの秀作「窓通信」、シャーロック・ホームズのごとき探偵が活躍するSF小説「狂言・切り裂きジャック」、言葉遊びと観察と皮肉に彩られた「舌学者、舌望に悶舌す」、何重にも施された知的な仕掛けが愉しい「秋の夜長の夢」、『不思議の国のアリス』を彷彿させる童話「おしっこエリザベス」の5編だ。
それぞれが独立した作品とも、自身のロンドン滞在を小説執筆のための〈取材旅行〉と嘯く〈僕〉による劇中作ともとれる。読後感も独特で、切れ味は鋭いのに、どこか幻想文学のような曖昧さが漂う。大野さんは、「どう読んでもらってもいいと思っています。読みの可能性を潰したくないので」と、したり顔で微笑む。
本書は、大野さんが実際にロンドンで暮らしていた時期に書いたものがベースになっているという。それから、作品の入れ替えや加筆など、約16年に亘る推敲と紆余曲折を経て、ついに日の目を見た形だ。
「テーマのひとつは、日本から見た“イギリス的なもの”です。また、異文化コミュニケーションを描いた小説でもあります。夏目漱石のロンドン留学はもちろん意識していますし、まさに〈僕〉のようにモラトリアムな若者だった頃の実体験もまじっています。だから当時のイギリスの世相批判もそれなりに(笑)。そういう意味では、一風変わった留学体験記としても共感してもらえるのでは」
作品ごとに文体を使い分けていることも特徴だ。さらに魅力的なのは、外国語に通じている著者ならではのウィットに富んだおしゃれな修辞、〈雄鶏(コック)〉と〈男根(コック)〉を掛けて英国文化を茶化す悪趣味さ、時折顔を覗かせる〈韋駄天走り〉〈岡目八目〉などの古風な日本語――。
「ご指摘のとおり、言葉を読んでほしくて書いているところがあります(笑)。ストーリーも大切ですが、僕にとっては言葉を読ませるための仕掛けでしかない」
いわく、「関心の中心は、常に言葉だった」大野さん。生まれ育ちは東京だが、スペイン、日本、中国と、3つの国にルーツを持つ。影響を受けた作家を訊くと、真っ先に漱石と太宰治を挙げた。
「恥ずかしいくらい王道ですけど、やはり、彼らが日本語を再構築し、磨き上げた小説家であるという点で惹かれるんです。ただ、それと同時に、日本文学と外国文学とを、それほど隔てて考えていないところもあります。大学の卒論では、『枕草子』と『失われた時を求めて』の構造の類似性について書きました」
現在は大学で教鞭を執りながら、歌人・紀貫之の『土佐日記』を研究中だ。一方で澁澤龍彥研究会のメンバーでもあるという。なんとも、つかみどころがない。
「自分をひとつのところに閉じ込めるのが好きではないので……。これからも翻訳は続けたいし、小説も出したいですね。書き溜めたものも、これから書きたいものもたくさんあります」
おおのろせい/1983年生まれ。小説家、翻訳家。法政大学国際文化学部准教授。専攻は日本古典文学、比較文化。翻訳書に『教皇ハドリアヌス七世』『僕は美しいひとを食べた』など。本名の大野ロベルト名義の著書に『紀貫之』がある。