輪島にいても何もできない…金沢へ行くことを決断
避難所で困ったのは便所だ。
大便が山盛りになり、ものすごい臭気を漂わせていた。
「運営スタッフが掃除をしてくれるのですが、翌日になったらまた山盛りになっています。発災から2~3日後に仮設トイレが配置されたのですけれど、使い方が分からない人が多かったせいでしょうか、これもかなり汚れていました」と門木夫妻は口をそろえる。
奈津希さんは仕方なく、「小さい方」は「体育館の外で済ませました」と打ち明ける。「同じように外でしていた人がかなりいました」と言う。
だが、19歳、15歳、10歳の娘には難しかった。
「特に下の娘は仮設トイレさえ怖がり、『ママ、外に立っていて』と戸を開けたまま用を足すような状態でした」と奈津希さんは話す。
一家は危険を承知で傾いた自宅の便所を使うようになる。が、「こちらも流せないので、すぐに山盛りになってしまいました」。始さんは恥ずかしげに語る。
にっちもさっちもいかなくなった夫妻は「金沢へ行こう」と決めた。
漁にはいつ出られるとも分からない。
輪島港には約200隻もの漁船があり、石川県の港では最大の水揚高を誇っていた。その中心になっていたのは海士町の漁師や海女だ。しかし、港の隆起で船が出入りできなくなった。漁協関連の港湾施設も損壊が激しい。港がいつ使えるようになるか、そもそも使える見込みがあるのかどうかさえ不明だった。
始さんは船が心配で港に行ってはみるのだが、自分ではどうしようもない現実に立ち尽くすばかりだった。そのまま輪島にいても、何もできない。
このため金沢へ行くという決断をしたのだが、発災当初は道路が寸断されて、どこが通れるか分からなかった。
何事もなかったかのように暮らす人々との“ギャップ”
ただ、遠方から支援物資を持って来る人はいた。「どこを通ったのか」。そうした人々から情報を集めて、金沢方面へ脱出する人もいた。帰省中に被災した若者らが輪島を離れていく。
発災から4日ほど後、始さんと奈津希さん夫妻、そして4人の子は1台の車にぎゅうぎゅうに乗って輪島を出発した。始さんの母は離れる決心がつかなかったため、数日後に迎えに戻ることにした。
行き先は金沢で仕事をしていた長男のアパートだ。被災前なら車で2時間強の道のりが、8時間も掛かった。
ようやくたどり着いた金沢は別天地だった。
「これが同じ県かと思うほどでした」と奈津希さんは話す。「風呂に入れる。そして便所が使えることが、どれほど素晴らしいことか実感しました」と始さんも言う。
長男のアパートで1週間ほど過ごした後は、県が2次避難所に指定した金沢市内のホテルに移った。
この頃から一家は何事もなかったかのように暮らす人々とのギャップに悩むことになる。