もう船の心配をしている場合ではなかった。すぐさま、きびすを返して山へ走る。
港の海水がなくなったのは、津波の引き波に加えて、海底が1~2mも隆起したせいだと知るのは後のことだ。
始さんは逃げる途中、奈津希さんに「どこにいる?」と携帯で電話をした。この時は通じた。
低体温症で命を落としかねない、真冬の災害の恐ろしさ
奈津希さんら6人は、近くの鳳来山公園の麓まで来ていた。
春には桜やツツジが咲く公園だ。海抜44mの頂上は広場になっていて、津波が発生した時には市が指定する緊急避難場所にもなっていた。ちょうど階段の近くまで来ていた始さんも合流し、7人全員で上がる。「200~300人ほどが避難していました」と始さんは話す。
だが、地面には多くのヒビ割れが走っていて、広場も半ば崩落していた。
「余震が続いていたので、さらに崩れないとも限りません。津波からは逃げられても、山崩れで死ぬのではないかと不安でした」と奈津希さんは振り返る。
まもなく日が暮れた。
津波がどうなったかは見えなかった。市街地で火事が起きた。夜空に赤く燃え広がっていくのが分かる。何かが爆発する音も聞こえた。
公園には避難から3時間ほどいたが、1月の夜は寒かった。部屋着のままだったから、凍えそうになる。
「もう避難所が開設されているのではないか」。一家は鳳来山公園から下りることにした。
「津波を警戒して、そのまま吹きさらしの頂上で夜を明かした人もいたようです。寒いなんてものじゃなかったろうに」と奈津希さんは話す。避難で助かっても、低体温症で命を落としかねないのが真冬の災害の恐ろしさだ。
体育館での避難生活のはじまり
鳳来山公園から下りる時、「怖いから一緒に行かせて」とついてきた人もいた。
暗闇の中で階段を歩き、まずは公民館へ行った。市の指定避難所になっている。しかし、停電していて発電機で照らされた場所以外は真っ暗だった。
このため、400mほど離れた小学校へ向かった。その途中、川を挟んだ向こうの市街地が赤々と燃えているのが見えた。
小学校は停電しておらず、体育館には照明が灯っていた。
一家はほっと胸を撫で下ろす。
それから体育館での避難生活が始まった。
門木家の3階建て住宅は基礎から傾いてしまい、危なくて屋内にいられたものではなかった。玄関の戸は閉まらず、自動ドアみたいに開いてしまう。
門木家は隣家に傾き、隣家は門木家の方に傾いていた。2軒は傾いた家同士、支え合っているようだった。
津波が輪島港の岸壁を越えなかったことだけは幸いした。家財が散乱した屋内から、衣類や毛布、飲み物を持ち出すことができた。ただ、物を探している時に余震に襲われ、慌てて外に飛び出すこともあった。市内では震度4の余震で倒壊した建物もある。