2次避難所によって被災者の扱いが異なる
金沢では普段通りの生活が続いていた。「輪島がどれだけ酷い状態か、説明してもなかなか分かってもらえません。2次避難した友達も同じように悩んでいました」と奈津希さんは語る。
石川県内でさえそうなのだから、遠隔地の人に理解してもらうのは、さらに難しかった。
例えば、長女が通う神戸市の専門学校にはいくら話しても伝わらなかった。学費の納入期限が迫る。「漁業ができなくなって、すぐには支払えないので3月末まで待ってほしい。市役所が機能しておらず、書類も提出できない」と電話で話しても、ピンと来ないようだった。一生懸命に言いすぎて語調が強くなったせいか、怒っているように受け止められてしまう。意思疎通ができるようになるまでには、かなりのやりとりが必要だった。
2次避難所によって違う被災者の扱いも被災者を混乱させた。
「3食弁当が出るところ、しかし毎日同じ内容のところ、パンしか出ないところ、食事は何もないところと差がありました。金沢の中心街・片町のホテルが割り当てられた人は当初、駐車場代に1日2000円も掛かりました。ご飯も3食買って食べなければなりません。『仕事もなくなったのに、このままでは手持ちの資金がすぐに尽きてしまう』と嘆いていました」と奈津希さんは話す。
門木家が身を寄せたホテルは、被災者向けにかなりのことをしてくれたようだ。ホテル内にシェアキッチンがあり、ここでご飯を炊いて、食材も提供してくれた。「すごくよくしてくれました」と夫妻は微笑む。
世の中は変わっても、被災者の状況は何も変わっていない
家族は次第にバラバラになっていった。長男は仕事に復帰、長女は神戸に帰る。中3の二女は県南部の集団避難先へ向かった。
小4の三女は被災時の恐怖が拭えず、ちょっとした揺れにもおびえるようになった。
「震度1~2程度の余震どころか、ホテルの近くをトラックが通った時にさえビクッとしてしまいます。救急車のサイレンも怖がりました。部屋にも1人ではいられなくなってしまい……」と奈津希さんは不安げだ。
能登半島地震の発生から3カ月が経った。
「私達の状況は1月1日から何も変わっていません」。奈津希さんは口を開くのも苦しそうだ。
一方、世の中は変わった。北陸新幹線の金沢-敦賀間が延伸開業し、観光キャンペーンも始まった。桜が咲いて、春になった。
明るいムードが醸成されていく。ところが、一家の先行きはどんどん見えなくなっている。
この差をどう受け止めればいいのだろう。