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「過去」に戻ることを拒否するヒロイン

〈あたしが恐かったのは、演技をくり返すことよ。好きでもない、欲しくもない男に抱かれ、そいつらのどうしようもないセックスに感じたり、いったフリをすること。どんな男が相手でも、あたしはそれができるようになっていた。でも、もうそれは嫌。本当に感じたいときに、感じたいように男に抱かれたい。いいかえれば、欲しいときだけ、あたしが抱くの。わかる? 演じるのはもうご免なの。(略)昔の自分を憎んでいるのではなくて、もう二度と芝居がしたくない、それだけ〉

 凄まじい危機にさらされても、水原は自分の感情や価値観に対して徹底的にピュアであり、過去に戻ることを、拒否している。

 過去があって、「今」がある。水原が相手を見切る力を身につけたのは、負の経験を通してであり、「負の経験を経てこそ初めて本当の強さを身に着けられる」真理は、大沢氏の作品に共通していることだ。

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 大沢ハードボイルドの主人公たちは、物語の中で、過酷な経験に見舞われる。「負の経験」の中に何らかの価値を見い出し、宿命を受け容れ、乗り越え、あくまでも前向きに生き延びようとする。

 その行動は、主人公の性別が女であっても、変わりない。

 水原は、「地獄」を抜けてきた自分を信じて、新たにやってきた「負の経験」に立ち向かう。過去よりも築き上げてきた「今」が大切であり、「今」を守るためならなんでもすると、女性なりの闘い方を駆使していく。

 ストレートで嘘のない自らを守るために闘う人物たちの姿は、お追従笑いや嘘が蔓延した世の中で、「善」といえるのではないだろうか? 水原が唯一、信頼を寄せる元刑事で探偵の星川も、男の体に女の心を持つ矛盾を抱えた人物だが、彼(彼女?)が水原に示す友情や優しさは本物だ。大沢ハードボイルドの「世界」では、お金に転んだり、誘惑に負けたり、状況にあわせて価値観をころころ変える“根性無し”のほうが「悪」なのだ。

自分の価値観を拠りどころに

 人に言えない秘密ができたり、大切な人をなくしたり。生きていれば、誰もが、なんらかの「負の経験」に見舞われるだろう。
 頑張るほどに疲れて、自分を見失い、自信をなくしている人も多いのではないか。

 過去の出来事が水原をどう変えたのか、少しずつ過去を明らかにしながら、水原がどう発言し、判断していくのか? が語られる物語を読みながら、読者は、自分の価値観を拠りどころに筋を通していく、スーパー・ヒロインのカッコよさに魅了されると思う。

 世の中に矛盾を感じつつ、自分の居場所を探して頑張っている人に、ぜひ、この上なくカッコいいスーパー・ヒロイン、水原の物語を読んでもらいたい。

 この本の続編、『魔女の盟約』が、2008年1月に刊行されている。韓国、中国へと舞台がグローバル化し、さらにスケールアップした続編も、一読をお奨めします。

(2009年5月)

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