いままでの常識が通用しない相手に粘り強く応戦した藤井
感想戦が終わったあと、藤井に話しかけた。聞きたかったのは一つだけ、端角に気がついていたのか?
「角は打ってくるかと思いました。ですが、その後の角が転回される手順は軽視していました」
つまり、58手目からペースを握られ、苦しいと思っていたことになる。それでも藤井は距離を詰め、前に出た。しかも、藤井は王手されたときに銀を合い駒した以外は、自陣に歩以外の駒を打っていないのだ。
それでも粘り強いのだから、いかに指し手が普通ではなかったかわかるだろう。
悪い時間が長いと勝てない。という言葉がある。形勢不利だと、どうしても挽回しようとして考える。疲労する。
そうすると、甘い球が飛んできても捉えることができない。打つことができない。しかも藤井玉は常に王手の危険にさらされていたのだから、神経の使い方も尋常ではなかったはずだ。それでも藤井はチャンスを逃さなかった。桂跳ねを逃さなかった。
いままでの常識が通用しないのだ。
この敗戦にくじけることなく、豊島は変化を続ける
本局、私が印象に残っているのは角の三角飛びでも桂跳ねでもない。感想戦での豊島の表情だった。あの最終盤の局面、香打ちではなく、△4八竜としたときの変化で、藤井は驚愕の手順を次々と披露した。
逆王手の筋に誘い込む。逃げ道を空けつつ詰めろをかける。鬼手、攻防手のオンパレードだ。どうやったら豊島が勝ちになるのかさっぱりわからない(後で中村に聞くと、9一まで藤井玉を追って詰まさなければいけなかった)。
盤側にいた立会・副立会の棋士は皆、驚きを隠すことができなかった。だが、豊島は藤井が示した局面を凝視し、読み続けた。あれだけ疲れたのに。痛恨の逆転負けなのに。早くこの場を離れたいとは思わないのか。なんで君は対局後も真剣に考えることができるのか。
冒頭に示したように豊島は変化を続けている。しかし、私が最初に見た、17歳の豊島と33歳の豊島は変わらない。透明で、しなやかで、したたかで、隙を見せないのだ。この敗戦にくじけることはない。
控室に戻って、棋士と検討の感想戦をしてから帰宅。ぐったりと疲れた。
この名人戦はとてもタフな戦いになる。戦っている2人にとっても、戦いを見守る我々にとっても。