とりあえず歩を突いて桂打ちの王手だけは防ぎたい。しかし、藤井は歩を突かない。こんな不安定な玉なのに前を向いている。ならばと豊島は踏み込む。香を取らせ銀を桂と刺し違え、と金を作る。中村と千田を中心とする検討陣は、AIの候補手も評価値も見ずに調べているが、見応えのある攻防に検討にも熱が入る。控室には藤井と同じ杉本昌隆八段門下の今井絢女流初段が検討に加わった。
対局を終えて駆けつけたのだ。その日のうちに帰る予定だったのだが、あまりに見ごたえある将棋で帰れず、「今日は泊まります」と最後まで検討の輪に加わっていた。
持ち駒にした飛車を打ち込んでクライマックスへ
控室のムードはずっと豊島ペースだったが、豊島がと金を寄った手に藤井猛が反応した。「これはと金取りに歩を打たれるよね、いやな予感がするね」と。
その予想通り、藤井は歩を打つ。豊島はと金を見捨て、銀を取り、その銀で飛車を奪い、そして玉頭に手をつけると攻めに攻める。そして藤井の香打ちの犠打を誘い、一転して局面を落ち着かせた。見事な指し回しに感嘆の声が上がる。
この指し回しに中村が「正確な見切りなんですね。緩急のつけかたが見事です。豊島さん強すぎる」と唸った。
藤井は受けを最小限にして反撃し、持ち駒にした飛車を打ち込んで王手した。終盤特有の「合い駒請求」の手筋だが、この飛車にはもう1つ意味があることをまだ控室は知らない。さあクライマックスだ。
豊島は竜で王手して、次に竜で金を取るだろう。おや、豊島玉にトン死筋がある。うん、馬取りに金を投入すれば、なんとか勝ちか。と、検討では結論が出て、私は対局室が映っているモニターを見た。藤井が玉を中段に逃げると、豊島は金を取らずに、田楽刺しとなる香を打った。ええっ、玉が下に逃げられるではないか。いや、金を取れば詰めろか、と私がいうと、中村が8八のマス目を示した。歩を打って馬の利きが止まる! あの飛車打ちはこのためだったのか。なんて視野が広いんだ。控室が騒然となる。
目の前に藤井がいないと、わからないことがある
いつも冷静な千田が「仕方ないから△3八桂成としますか。第2ラウンドですね」。これは長くなると、頭を冷やすためにお手洗いに行き、顔を洗って控室に戻ると、棋士全員の顔色がさらに変わっていた。モニターを見ると、「藤井の桂」が跳ねているではないか! 藤井には絶対に使わせてはいけないと、封印していたはずの右桂が。