豊島が桂を成らないで竜を動かしたため、その間に藤井の桂に詰めろで跳ねられてしまったのだ。盤の前に戻ると、中村の目が血走っていた。
「王座戦の逆転劇よりも驚いています。まだ残り時間が10分以上あったのに……。豊島さんほどの方が……」
やがて「藤井さんと盤を挟んで戦わないと、目の前に藤井さんがいないと、わからないことがあるんですね」とうめいた。
中村は前期にA級順位戦に初参戦し、豊島には完敗したが、それでも4勝5敗の成績で残留を果たした。その中村の言葉だからこそ重みがあった。藤井との戦いは、何があっても、どんな手を指しても、外野があれこれ言ってもしかたないのだ。
インタビューの声が聞き取れないほど、両者は対局で疲弊
それでも豊島は粘る。馬の利きを自陣に通し、桂取りに銀を投入する。
まあ慌てずに桂取りを受けるか、などと話していると藤井は飛車を打った。豊島玉の側面は金銀3枚で守っているのに? やがて千田が「そうか銀打ちか」と叫んだ。えっ、名局賞特別賞を受賞した、2021年の松尾歩八段との竜王戦(ランキング戦第2組)と同じ手を。あの伝説の符号「▲4一銀」が名人戦の舞台でも? 藤井は香を打たれた後は、残り4分のままで9手も指した。そして、ここでもわずか1分しか使わず、銀を打った。取れば飛車を切って17手詰め。逃げても必至がかかる。
豊島は残り時間を使い、打たれた銀を盤面に残したまま、頭を下げた。午後9時22分、141手にて藤井名人が先勝。
インタビューを終えて感想戦。私が2人の感想戦を対局室で見るのは、2021年9月の叡王戦第5局以来だ。序盤から消耗する将棋だけあって、2人とも声が小さく、特に藤井の声は聞き取れないほどだ。
ABEMAの地域対抗戦では同じチームとしてにこやかに談笑していたし、藤井は豊島に常に敬意を払っていた。
しかし、まだ戦いが続いているかのような雰囲気だった。豊島はマスクをしていたものの、顔色は対局中と変わらない。それは藤井も同様だ。豊島は序盤の変化の検討はやんわりと拒否した。藤井もそうで、盤外では笑顔を絶やさないが、本局で笑みを浮かべたのは感想戦開始から30分近く経ってからの一度だけだった。
そうだ、まだ第1局が終わったばかりなんだ。戦いは始まったばかりなんだ。