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 開業当時の敦賀駅はいまの場所とは違い、氣比神宮の南西側に位置していたという。さらに、線路は港まで続いていて、金ヶ崎駅(のち敦賀港駅)が設けられていた。

 敦賀港は1899年には開港場に指定され、1902年にはロシアのウラジオストクとを結ぶ定期航路が開かれる。赤レンガ倉庫が建てられたのは1905年のこと。輸入された石油の貯蔵庫として建設されたものだ。

 

今から100年ちょっと前、1枚の切符で東京からヨーロッパまで旅が出来た

 1912年には、「欧亜国際連絡列車」が運行を開始する。東京(新橋)から敦賀へ、敦賀からは船に乗り継ぎウラジオストク。シベリア鉄道で西を目指してヨーロッパまで。間に海を挟むからもちろんひとつの列車に乗りっぱなしというわけでないが、東京からヨーロッパまで一枚のきっぷで旅することができるようになった。その重要な中継点のひとつが、敦賀という町だった。

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 敦賀を介する欧亜国際連絡列車は、実に多くの人々に使われている。たとえば、日本が初めて参加した1912年のストックホルムオリンピック。選手団は、敦賀から船に乗って遠くスウェーデンまで旅をした。

 戦時中には杉原千畝が発行した「命のビザ」を手にしたユダヤ難民が上陸したのも敦賀の地。いま、敦賀港の脇には「人道の港 敦賀ムゼウム」という資料館が建っている。

姿を消した欧亜国際連絡列車は戦後…

 欧亜国際連絡列車は、第二次世界大戦の激化によっていつしか姿を消した。敦賀駅から敦賀港駅までの支線は半ば貨物専用となり、1987年に旅客営業を正式に廃止。2009年限りで貨物列車も消え、2019年に廃線になった。

 こうして海外に開かれた海陸連絡都市・敦賀が歴史の向こうに消えたところで、今年になって開業したのが新幹線の敦賀駅なのだ。

 だから、敦賀駅で降りたら、多少時間がかかっても駅から海まで歩きたい。かつてここからシベリア、そしてヨーロッパに向けて旅をした人たちがいた。駅前の大通りに『銀河鉄道999』のオブジェが置かれているのは、敦賀の町にこうした歴史があるから、なのだという。こんな歴史を垣間見れば、敦賀駅での新幹線と特急との乗り継ぎなんて、ちっぽけなものではないか。

 

 いまは敦賀港から海外への国際旅客航路は存在しない。だが、いつかまた、敦賀駅で新幹線を降りて、海を渡って海外へ。そんな旅が実現することがあれば、なかなかロマンチックではないかと思う。いずれにしても、敦賀という新たな新幹線の終着駅は、ただの終着駅ではないのである。

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