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 アル・プラザの角を曲がって国道8号を北上すると、こちらも歩道側は商店街。その中を駅からだいたい20分歩くと、大きな鳥居が見えてきた。越前国一宮にして北陸道総鎮守、氣比神宮の大鳥居だ。敦賀という町は、氣比神宮の門前町という側面も持つ。だから、氣比神宮の周囲はまさに中心市街地といった様相だ。

 

 敦賀市の人口は6万人ちょっと。だから中心市街地といっても福井市や金沢市などのそれとはさすがに規模は違う。が、それでも氣比神宮の南側にはプチ歓楽街もあったりして、大鳥居からまっすぐ西に延びる通りともども、地域の中心らしい雰囲気を漂わせている。

 さらに歩みを進めていくと、駅から30分くらいで海が見えてくる。東も西も山に囲まれる敦賀湾。西の端には気比の松原が広がり、その周囲には民宿なども建ち並ぶ。いくらか駅に近い東端には敦賀港。港を取り巻くようにして、赤レンガ倉庫や敦賀鉄道資料館などの観光施設が集まっている。そして、赤レンガ倉庫の裏手にゆくと、いまは使われていない線路が残されていた。

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じつは「日本の鉄道最初期」から計画されていた「敦賀」への線路

 敦賀駅が開業したのは、1882年のことだ。2年後には滋賀県との間の山を貫くトンネルが通り、長浜~敦賀がつながった。新橋~横浜間の開業からは10年ほど遅れているが、計画そのものは新橋~横浜間と同じ時点、1869年に明治政府によって決定されている。東京~横浜、京都~神戸と並び、琵琶湖周辺と敦賀を結ぶ鉄道が最初期に計画されたのだ。

 これは、敦賀が日本海側の要港のひとつだったからだ。古くから天然の良港として栄え、日本海側の物資は敦賀から陸路で山を越えて京・大坂まで運ばれていた。江戸時代に西廻り航路が開設されると敦賀経由の陸路は廃れるが、鉄道がいち早くやってきたことで、敦賀は要港としての地位を再び取り戻すことになる。