1963年、東京のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で刺された力道山は、その数日後に息を引き取ってしまう。亡くなるまでの数日間は、妻である田中敬子さんにどう映ったのか? 力道山が亡くなった日の記憶を、ノンフィクション作家・細田昌志氏の新刊『力道山未亡人』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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新聞報道
腹部を刺され、山王病院に運ばれた力道山は、応急手当で済ませると、医師の忠告に耳を貸さず「家に帰る」とわめき散らしたという。
「病院で手術をすると警察に漏れてしまって、報道されかねない。そうすると『力道山は強い』というイメージが損なわれる。そのことを、まず考えたんでしょう」(田中敬子)
しかし、長谷和三やキャピー原田の説得に折れ、力道山は山王病院に再び送られ、手術をすることになった。執刀医は院長の長谷和三本人ではなく、聖路加国際病院の上中省三外科医が呼ばれた。右翼の大物である児玉誉士夫の紹介で、以前から懇意にしていたのだ。
当時の山王病院は産婦人科が専門で、外科医がいなかった。それで、聖路加国際病院から上中医師が、急遽、呼ばれることになったのである。
午前七時、自宅の電話が鳴った。
「上中です。手術は終わりました。容態も良好です。傷口は目立たないようにしました」
「ありがとうございます」
「奥様は午後にでも、病院にいらして下さい」
安堵した敬子は、ずっと眠っていないことに気付いた。休む前に朝刊をめくると、社会面に「力道山、ナイトクラブでケンカ 刺される」という見出しが飛び込んで来た。
《八日午後十一時ごろ東京都千代田区永田町二の二二ナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」店内でプロレスラー力道山(本名百田光浩さん四〇)(中略)はささいなことから若い男ととっくみあいのけんかとなり、刃物で左下腹部を刺され長さ四センチのキズで全治二週間のケガを負った。力道山はいったんリキ・アパートにもどったのち山王病院に収容された》(1963年12月9日付/読売新聞)
「誰にも言うな」と力道山が釘を刺したのは、マスコミに漏れることを恐れたためだが、こうして記事になっている。それどころか、アパートの周辺に警察官が七十名も配備されていたなんて、まったく気付かなかった。
記事を追うと、次の一文があった。
《この事件の二時間後、九日午前零時四十分ごろリキ・アパートの前で乱闘さわぎがあり、(中略)警視庁では力道山の傷害事件から派生したやくざのけんかとみて赤坂署を中心に捜査一課、同四課が背後関係の追及にのりだす一方、赤坂署では隣接六署に緊急配備を発令、警戒に当たった》(同)
新聞報道から、敬子は、昨夜の様子が手に取るように理解出来た。
同時に、自分は何一つ知らされていないことを悟った。