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首の回りに奇妙なアザのある死体が…「仲間が絞め殺したのでは」海で遭難した145人の男たちによる“極限状態”の無人島生活

『絶海――英国船ウェイジャー号の地獄』より#2

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 もっとも、ぐずぐずしている時間もなかった。チープはこの荒れ野に前哨基地を築き、大英帝国の種を播く計画を練り始めた。ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」状態に陥るのを防ぐために、遭難者たちに対して拘束力のあるルールや厳格な社会構造、それにみなを統率する指揮官が必要だとチープは考えた。

 全員を呼び集めたチープは、海軍条例についてあらためて説明し、陸上でも条例が適用されるのだと念を押した。特に、「反抗的な集会や……慣習、意図」は禁じられており、違反すると「死刑に処す」と定められていると強調した。全員が力を合わせ、各自が割り当てられた作業を着実にかつ敢然とこなす必要がある。諸君はまだ、艦長の意のままに正確に動く人間機械の一部なのだからと。

人一倍よく働くバルクリーを回収作業班に抜擢

 島には潜在的な脅威があり、食料が不足していることを考慮し、ウェイジャー号の残骸の引き揚げ作業をする必要があるとチープは判断する。後甲板と船首上甲板(フォクスル)の一部はまだ海面に出ていた。「私の第一の関心事は、武器と弾薬、そして食料を十分に確保することだった」とチープは報告書に記している。

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 チープは回収作業班の編成に取りかかった。この危険な任務に抜擢したのは、掌砲長ジョン・バルクリーだった。もっとも、チープはバルクリーのことを理屈屋と見なしていた。言うならば、海の掟は上官よりも自分のほうが熟知していると誇示したがるうるさ型の船乗りだ。難破してからというもの、バルクリーはここぞとばかりに自主性を発揮している様子で、自分たち用の大型の小屋を作り、他の者に提供していた。

 だが、ベインズ海尉とは違い、バルクリーは人一倍よく働くし疫病にも罹らなかったタフな男なので、ベインズよりバルクリーに指揮を任せたほうが回収作業班の他のメンバーも働くことだろう。チープは、士官候補生のジョン・バイロンも同行させることにした。航海中、バイロンは自分に忠実に仕えてくれていたし、沈没しかけた船から脱出する手助けをしてくれた。

 チープが見守る中で、バルクリーとバイロンに加えて少数の要員が小型艇に乗って出発した。全班員の身の安全は今や彼ら自身の掌中にあった。ウェイジャー号の残骸に沿って漕いでいると、波にしたたかに打ちつけられた。小型艇を軍艦に括り付けると、難破した船によじ登り、陥没した甲板やひび割れた船梁の上を這い進んだ。班員たちが船の上にいる間も、ウェイジャー号は崩壊し続けていた。

 班員たちが沈没した残骸の上をそろそろと進みながら、足元の水に目をやると、甲板の狭間に仲間の遺体が浮かんでいるのが見えた。足を踏み外せば、自分たちもその仲間入りだ。「このように何度か難破船に乗り込んだ際に遭遇することになった困難の数々は、簡単には言い表せない」とバイロンは記している。