荒れ果てた世界でも自分を保つことができたワケ
ジョン・バルクリーには使命感があった。船匠長カミンズや体格のよい数人の仲間とともに、木の枝を集め始めた。野営地の平らな場所でそれを組み合わせて骨組みを作った。ついで、森から草や木の葉や葦を拾ってくると草葺きの手法で外壁を覆い、さらに難破船から回収してきた毛織物の端布で覆って断熱した。裂けた帆布をカーテン代わりにし、内部を14の区画に、バルクリーの言う「船室」に分けた。するとなんと艦長のチープが暮らす小屋もかすむほどの住居が完成した。
「これは豪華な家だ。世界の一部の地域で、かなりの高額で取り引きされる物件だ」とバルクリーは記している。
「私たちが今いる場所を考えると、これ以上の住居は望めない」
小屋の中では、木の板がテーブルとして、樽が椅子として使われた。バルクリーには専用の寝室があり、船から引き揚げた愛読書『キリスト者の規範──すなわち、イエス・キリストに倣うための一考察』を炉明かりで読むための場所もあった。「神の摂理は、私が慰めを得る手段になった」とバルクリーは記している。
さらに、定期的に日誌を書ける乾いた場所も確保した。この習慣があったことで、バルクリーは注意を怠らなかったし、荒れ果てた世界でもかつての自分の一部を保つことができた。
なお、バルクリーは航海長のクラークの航海日誌を発見したのだが、その日誌もばらばらに引きちぎられていた。それもまた、難破の要因となった人為的ミスの証拠を消し去ろうとする何者かの意図の痕跡だった。バルクリーは「事実の正確な経緯」をはっきりさせるために、ことのほか「慎重に日々のやり取りを記録した」と断言している。
次第に野営地が集落に変化
その頃、他の遭難者たちも、バイロンに言わせると各自が自分用の「一風変わった住居」を建設中だった。幕屋もあれば、差し掛け小屋もあり、草葺き小屋もあったが、バルクリーたちのほど大きなものは一つもなかった。
長年にわたる階級や社会階層へのこだわりからなのか、あるいは単に慣れ親しんだ秩序を守ろうとしたからなのか、船の上でもそうだったように、遭難者たちはこの島でも格差に甘んじた。今やチープは先住民の小屋を自分だけで独占するようになり、そこでごく親しい仲間と食事をし、従卒プラストウに世話を焼かれていた。片やバルクリーは、船匠長カミンズをはじめとする主に他の准尉〔准士官ともいう。航海長、船匠、掌帆長、掌砲長、主計長など、専門技能をもつ職種の長〕と共同生活を送っていた。
バイロンはというと、カズンズ、キャンベル、アイザック・モリスら士官候補生仲間とともに、狭い小屋でひしめき合いながら暮らしていた。まるで、ウェイジャー号の最下層にあるオーク材でできた船倉に戻ったかのようだった。海兵隊長のロバート・ペンバートンは、他の陸軍所属の海兵隊員たちのテント数張りの隣に建てた小屋を独り占めしていた。そして、ジョン・ジョーンズやジョン・ダックら一般の乗組員たちは、それぞれ数人ずつに分かれ、共同の小屋で暮らしていた。船匠助手のミッチェルたち血の気の多い連中も、やはりまとまって暮らしていた。
辺りはもはや野営地ではなかった。バイロンに言わせると「ある種の集落」になっていて、一本の道が通っていた。バルクリーは誇らしげに「我々の新しい町をよく見ると、18戸も家がある」と記している。