光り輝く人生が暗転
西田は東京大学の大学院で西洋政治思想史を学び、単身イランに渡った後、東芝のイランの現地法人で、臨時職員として働き始めた。これが東芝との関わりの始まりだった。西田は29歳。そこで、イラン人の妻を娶った西田は日本に帰り、世界初のノートパソコンの開発に成功するなど、実業の世界でも頭角を現した。
2005年6月、社長となった西田は大胆な経営判断を下し、原子力事業に社の命運を賭けた。世界的な原子力関連企業「ウエスチングハウス」の買収に踏み切り、三菱重工と最後の最後まで競り合った買収劇は、原子力業界のみならず世界を驚かせた。西田は、時代を代表する経営者として、臨時採用から社長になった異色の経歴も手伝って、一躍時の人となった。就任当時、およそ400円前後で推移していた株価は、2007年7月25日には終値で1169円をつけるなど、マーケットも西田を支持していた。
ところが――。光り輝いていた経営者、西田の人生が暗転する。まず後継に社長指名した佐々木則夫との確執が表面化。公の記者会見の場で、お互いに罵り合うような醜態をさらすことになった。
異能の経営者の転落
そこに、東日本大震災(2011年3月11日)による、東京電力「福島第一原子力発電所」のメルトダウンが追い討ちをかけた。人類の科学史に汚点を残したこの大惨事により、世界中の原子力発電計画がストップしてしまう。ウエスチングハウスを買収し、経営資源を原子力事業に集中させていた東芝の経営状態は、一気に悪化する。そうした中、新たに会社ぐるみの粉飾事件も発覚した。
最後まで、日本経団連の会長職を狙い、固執し続けた西田だったが、結局、東芝崩壊の戦犯として、会社から身を退いていった。寂しすぎる引き際だった。
その後、西田が「胆管がん」であることを知り、横浜市内にある自宅で、最後のインタビューを受けてもらった。かつての時代を代表する経営者が、東芝崩壊の戦犯と呼ばれて、心模様はどう変わったのか。聞いてみたいことは山ほどあった。
長期入院で10キロ以上体重を落とし、西田の浅黒かった顔色も、紙のように白くなっていた。にもかかわらずこのインタビューで、西田は3時間あまり、淀みなくエネルギッシュに話し続けた。自らの正当性を、自分は間違っていなかったということを……。混乱を招いた一人として、東芝の社員への謝罪や、社員を慮る言葉は一切なかった。そして、本が出版された2017年11月20日から1カ月もたたない12月8日、西田は亡くなった。
「サラリーマンの人生は虚しい」
73歳で亡くなった異能の経営者の栄光と転落を描いたこの本を読み、服部は感想をこう述べた。
「サラリーマンの人生は虚しいね、児玉さん」