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「服部さん、来年にはね、服部さんを役員にするからね」

 服部は涙が溢れそうになった。27歳で飢餓の国、中国から帰国。トヨタに入社して始まった遅咲きのサラリーマン生活だが、日本社会の縮図のような会社人生で、共産党社会とはまったく別種の生き延びる術を学んだ。導き出された一つの結論は、出世をしなければダメだ、ということ。力を持たなければダメだということ。自分の思いを遂げるには、出世しかなかった。

「服部、上(出世の意味)に行けよ」

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 これは、服部が長く仕えた奥田の口癖でもあった。“役員”を約束するという章一郎の言葉を聞きながら、奥田の口癖を思い出していた。服部は感無量だった。

さらなる“提案”が…

 さらに、章一郎は服部を驚かせることを言うのだった。

「服部さんね、僕は服部さんに自家用ジェット機をプレゼントするよ。『服部号』だよ」

 章一郎は身振り手振りを交えて、プレゼントする「自家用ジェット機」について説明していた。

「服部さん、服部号に乗って中国中を飛び回って、もっともっと活躍してくださいよ」

「名誉会長、そんなことはどうでもいいんですよ」

 そう言って左右に両手を振ってみせたものの、役員昇進、さらには、服部個人の名前を冠した自家用ジェットもプレゼントしてくれるという――。服部は、夢見心地になった。

 しかし……。

章一郎氏の裏切り、章男氏の反応

 服部に役員就任の辞令が届くことはなかった。北京に「服部号」が届くこともなかった。服部は、章一郎の口約束を責め立てることはなかった。ただ、息子である章男に愚痴はこぼした。服部の話を聞いた章男は驚き、そして笑いながら服部にこう言うのだった。

「服部さん、名誉会長はそういう人じゃないですか。口だけなんですよ、いつでも。服部さんだって長い付き合いなのに、そんなことも知らなかったんですか?」

 博子からもらった赤いネクタイは、トヨタを辞めた日に捨てた。サラリーマンは虚しい、こう語る服部の心象風景に、このエピソードは色濃く影を落としているのだろう。