服部の小柄な身体が、もう一回り小さく見えてしまうような言葉だった。経済ミッションで北京にやってきた西田や社長の佐々木と、服部は直接何度か会ったことがあるという。29歳でイランの現地法人に採用されてサラリーマン人生を歩んだ西田も、日本のサラリーマン社会では、服部同様に“異邦人”でもあった。
たしかに、服部もサラリーマンだった。日中の国交がなかった時代に、中国から帰国。29歳で「トヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)」に就職し、豪州とアジアを担当する「豪亜部」に配属された。
後に服部の前に、大柄な男が部長として現れる。名前は奥田碩。社長、会長として、トヨタの世界戦略を牽引した人物だ。奥田との出会いが、服部のサラリーマン人生を決定的に変えた。奥田は服部の能力をよく理解した。奥田と服部の関係は、やがてトヨタ社内でも特別視されるようになるが、それは周囲の思っている以上に長く、深いものだった。
「虚しいっていっても、服部さんは、中国ではトヨタ躍進の立役者じゃないですか。だから中国総代表にまでなったんでしょう? 大出世じゃないですか?」
こう言うや、服部は顔をしかめ、
「違う、違う」
と言って顔を左右に振り、筆者の言葉を否定した。
忘れられない“苦い記憶”
「大出世じゃないんですか?」
「出世なんかしてないよ。総代表にはなったよ。けれども、章一郎さんが、僕を正式に役員にするって言ったんだよ。本当ならば、僕は役員になるはずだったんだよ……」
章一郎とは、トヨタの豊田章男会長の父親で、2023年に亡くなった名誉会長、豊田章一郎のことだ。豊田家の家長でもあった。
2004年当時、トヨタ中国の総代表の地位にあった服部が、今でも忘れられない場面がある。
服部が日本に一時帰国し、愛知県豊田市にあるトヨタ自動車の本社を訪ねた時のことだ。服部は名誉会長となっていた豊田章一郎の秘書に迎えられ、そのまま名誉会長室に通された。怪訝な思いで入っていくと、さらに服部は驚くこととなる。なぜなら、予想もしていなかった人物が待っていたからだ。名誉会長とともに服部を迎えたのは、章一郎の妻、博子だった。
博子は三井財閥の一族、伊皿子家の8代目当主にあたる三井高長の三女だった。豊田家と三井家をつなぐ深い縁を示すのが、博子の存在だった。
驚く服部に、博子が丁重に椅子を勧めた。服部は何が何だかわからないまま、2人の言葉を待った。