そんな矛盾した状況で、ヤミ売買を裁く立場にあった山口判事は、自分がヤミで入手したものを食べるわけにはいかないと妻に宣言し、配給でもらった食料は、まだ幼い2人の子に回し、お米のとぎ汁のようなものだけを口に入れるようになる。
「虎に翼」では、花岡が寅子と再会し、外のベンチで一緒にお弁当を食べるものの、花岡が「今は主に経済事犯専任判事として主に食糧管理法違反の事案を担当しているよ」と告げると、寅子がヤミ米で作ったお弁当を隠す場面もあった。
花岡は寅子を告発なんてしないと言うが、寅子は「でも、法を犯しているのは事実ですから」と言い、やはりそこには法に携わる人間として葛藤があるようだった。そして、花岡の弁当の中身は、麦と米のクズで作ったおにぎり1つだけだった。
山口判事はほとんど絶食して1年、栄養失調と病気で倒れる
実在した山口判事はもっとストイックで、おにぎりどころか、固形物はほとんど口にしていなかったという。そんな食生活を約1年間続け、栄養失調と肺浸潤(初期の肺結核)で倒れ、郷里の佐賀に戻った直後、1947年10月11日にこの世を去る。
その死は11月5日の朝日新聞で「判事がヤミを拒み、栄養失調で死亡 遺した日誌で明るみに」と報じられ、全国の人が知るところとなる。記事の一部を以下に引用する。
その死を報じる朝日新聞の記事が全国に衝撃を与えた
“安い給料では食えぬ”と判検事がぞくぞく弁護士に転業していく折柄、いまこそ判検事は法の威信に徹しなければならぬとギリギリの薄給から、一切のヤミを拒否して配給生活をまもりつづけ、極度の栄養失調がモトでついに肺浸潤でたおれた青年検事の話が、このほど葬儀に参列した同僚と、その日記からはじめて明らかにされ悲痛なその死をいたまれている。
話題の人は(中略)山口良忠判事(33)で、世田谷区に妻(31)との間に二児を抱えていたが、(中略)判事、月給三十円(税込)足らずでは、押し寄せるインフレの波では二人の子供が訴える空腹さえ満たしてやれなかった。