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 フリッツはクリスティーネこそが幸せのもとだと気づくが、それは勝ち目のない決闘を控えて死を意識したからだろう。そういうことがなければ、スウィート・ガールはあくまでスウィート・ガール。いくら相手から真の愛を捧げられようと飽きれば捨てるし、自分にふさわしい女性との結婚の妨げにはならない。

 世紀末の芸術作品は妖艶で危険なファム・ファタール(「運命の女」「悪女」)であふれていた。しかし男を破滅させかねない美女に現実社会で出会う確率などきわめて低い。むしろその正反対の、無害で取り換え可能の貧しいスウィート・ガールのほうがはるかに多かった。彼女らはブルジョワ男によって束の間ウィーン中心部の華やかな世界に身を置き、捨てられれば娼婦に堕ちるか、郊外へ帰って自分と同じ身分の労働者階級の男の妻となった。

 もちろん例外もある。フランスのココ・シャネルも若い時はスウィート・ガールだったが、自分を遊び相手に選んだ貴族を足掛かりにしてあのシャネル帝国を築いた。耐え難い屈辱、血のにじむような努力、そして才能による大勝利だ。つまり搾取される側にも勝ち目はあるのだ。ごく稀とはいえ、こうして相手の男の「甘さ」を利用してのしあがることが可能なのが、男女関係の面白さだろう。

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 ちなみに『恋愛三昧』初演時のクリスティーネ役女優は、シュニッツラーの愛人の一人だった。ヒロインに抜擢されたのは、彼にとってのスウィート・ガールだったおかげかもしれない。

 女優、歌手、バレリーナ、絵画モデルは、娼婦と同列と見なされた時代だった。それでも前三者はプロとして圧倒的才能があれば敬意をはらわれたが、ヌードでさまざまなポーズをとるモデルは違う。スウィート・ガールの成れの果ての娼婦扱い、というより、社会の最底辺扱いだった。

 クリムトもそう考えていた。彼はアトリエに常時おおぜいのモデルを集め(ほとんど雑居状態と言ってよかった)、オールヌードで動きまわらせた。興が乗ると長時間描き続け、飽きれば庭で筋肉トレーニングに励み、再びスケッチにもどり、気分転換に彼女らをベッドへ誘った。「モデルに触れないと描けない」と豪語していたから、見境なしだ。