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 この事件の後も密航は止まらなかったようだ。大阪毎日(大毎)の同年10月15日付には「婦女の密航復(ま)た盛んなり」という記事がある。「かの伏木丸窒死事件からその筋の取り締まりは厳重で、一時中絶の状態だった婦女の密航はまたまた昨今、各所で盛んになっていることから、当地の警察本部などは強い注意を払っている」。

 木村健二『近代日本の移民と国家・地域社会』(2021年)によれば、それまでに日本政府には海外公館から日本人娼婦が増加しているとの報告が相次いでおり、外務省は1883(明治16)年、密航による海外渡航婦女の取り締まりを命令。

 さらに伏木丸事件から3年後の1893(明治26)年2月には「婦女を誘惑して海外に渡航させ、醜業に従事させて金銭をむさぼり、困難に陥らせているので、こうした渡航の途を途絶し、婦女をみだりに渡航させないように取り締まる」ことを命じた外務省訓令第1号を発した。そうして取り締まりが厳しくなるにつれ、密航も増えたと思われる。

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船のあらゆるところに女性たちを隠した“密航”が相次いで発覚

 約3年後の1893年6月23日付東日には「醜業婦の樽詰」の見出しの記事が。当時は、公文書などでも娼婦のことを「醜業婦」と表現することが多かった。カナダ-横浜間の定期郵船のボーイに「無頼漢」がおり、常に海外娼館経営者の手先となって女性密航の仲介をしていた。

「醜業婦の樽詰」の見出し(東京日日)

 同年4月25日横浜出帆の船に女性7人を乗り込ませ、買ってきた空き樽7個に詰め込み、5月10日バンクーバー着。税関の目をかすめて荷揚げし、約束の場所に持って行こうとしたとき、警察に取り押さえられた。発覚の端緒は、横浜出航の際、別の誘拐グループが6人の女性を同船の便所に隠していたのが摘発され、グループの人間が「ほかにも女が乗っている」と密告したことだった。

 同年6月8日付の福岡の地元紙・福岡日日新聞には、長崎港から上海に向けて出港する予定の船を臨検していた警察官による発見の経緯が載っている。警察官は船底の室内にあった帆や船具を包むむしろが怪しいとにらみ、開けたところ、熊本、福岡、山口、広島の女性計6人が見つかった。

女たちが誘拐者の男を取り囲んでむしゃぶりつき…

 長く定期船の船長を務めた加藤久勝は『甲板に立ちて』(1926年)に密航者の悲惨なありさまを記している。

 船の水槽へ押し込めてあったのを、何も知らない機関士が航海中、充水したため、生きながら水に葬られて青膨れの死体となった者や、石炭ガスに中毒し、悶え叫んで血を吐きながら死んで行った哀れな女や、食に飢え、水に渇いて髪振り乱した骨ばかりの幽鬼のような女が石炭の塊に食いついたまま息を引き取ったというものや、女たちが誘拐者である1人の男を取り囲んでむしゃぶりつき、ネズミが餅でもかじるように、彼の無情を恨んだ彼女たちが血みどろの歯をむき出して食いつき、ひっかき、目をえぐり、鼻をむしってなぶり殺しにしたというような、そうした身の毛のよだつすごい話はいくら書いても尽くせない。

 では、女性たちの海外への連れ出しはどのように行われたのか。