『ノイエ・ハイマート』(池澤夏樹 著)新潮社

 2015年9月に世界中に大きなショックを与えた写真がある。それはトルコの海岸に漂着した3歳の男の子アイラン・クルディさんの写真である。波打ち際にうつ伏せになったその小さな遺体を見て胸を痛めた人は多かったと思う。家族とともにシリアからヨーロッパに避難する途上だった。

 世界には、内戦や貧困など様々な理由で故国を離れざるを得ない人たちがあとを絶たない。どのような運命が待ち受けるにせよ、帰る場所がない彼らにとっては、行き着いた先が「新しい故郷」(ドイツ語で「ノイエ・ハイマート」)となる。

 本書では、この「新しい故郷」に向かう難民たちの苦難に満ちた旅路が、主に2人の登場人物を通して描かれる。

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 日本人の「私」とシリア人の「ラヤン」はともにビデオ・ジャーナリストである。2人は2010年にイラクで出会う。その後、「私」は日本に戻って東日本大震災を取材し、ラヤンは中東からヨーロッパに向かう難民たちに同行する。

 作者の池澤は、「難民になる」という体験がどのようなものなのか、読者と一緒に想像しようと試みている。それは、難民認定率が極めて低く、難民が可視化されにくいこの日本に暮らす私たちには難しい試みなのかもしれない。でも知らないで済まされることではない。

 苛酷な体験の当事者の声に触れることは重要である。しかしその言葉のつづる現実の悲惨さに耐えきれず、私たちが目を閉じ耳を塞ぐことが起きてしまう。

 では、フィクションの特性を活かして、読者が受け入れやすい難民のストーリーを当事者の声として語ればよいのだろうか?

 しかし池澤はそのような方法はとらない。旅する作家・詩人でもある池澤は、本書の舞台となる世界各地に実際に足を運び、難民たちと間近に接する機会が度々あったはずだ。

 その苦難への共感が深いからこそ、池澤は難民たちの代わりに語ることは極力避け、難民たちに寄り添う2人のジャーナリストの視点を通して難民体験に接近していく。

 ラヤンは「私」が撮った被災地の映像についてこう言う。「被写体へのコンパッションとシンパシーがとてもいい。客観的な中に感情が交じる。その比率が模範」。

 この言葉はそのまま本書に当てはまる。2人のジャーナリストの物語のあいだに、難民の体験を主題として池澤が折々に書いてきた詩や短篇が挟まる。アイラン・クルディさんとその家族のように、中東からヨーロッパを目指す難民だけではなく、ユーゴ内戦で故郷を失った老婆の物語や満州からの引揚者の体験(多くの日本人が難民だったのだ)を語り直したものもある。

 その配置のバランスが絶妙なおかげで、重い主題でありながらも、読者は自分の呼吸とペースで「難民体験」に思いを巡らすことができる。

いけざわなつき/1945年北海道生まれ。東京、ギリシャ、沖縄、フランス、札幌を経て、2024年時点では安曇野在住。84年『夏の朝の成層圏』で作家デビュー。著書、受賞多数。近刊に長篇小説『また会う日まで』、エッセイ『天はあおあお 野はひろびろ』。
 

おのまさつぐ/1970年、大分県生まれ。作家、仏文学者、早稲田大学教授。『九年前の祈り』で芥川賞。近著に『あわいに開かれて』。