「湊川だぜ!」…全滅覚悟の出撃
野中一家は、その日を待ちつつ、楠正成(くすのきまさしげ)が用いたという「非理法権天」「南無八幡大菩薩」の大幟(おおのぼり)を指揮所にはためかせて、最後を派手やかに飾った。大きな陣太鼓をもちこみ、これを打ち鳴らして、「搭乗員整列」「訓練開始」などの合図とした。それと、およそ季節はずれの鯉幟(こいのぼり)の吹流しがへんぽんとして、たえず基地のまん中にひるがえっていた。
尋ねられると、野中少佐は、
「5つになる長男から借用してきたもんさ」
と言ったというが、そのときは決まって大照れに照れたという。
戦局挽回の期待をになって神雷部隊が出撃したのは、昭和20年3月21日。それが初陣の日となった。直衛の戦闘機は予期したとおり数少なかったが、総指揮をとる宇垣纏(うがき・まとめ)中将は、
「いまの状況で桜花を使えないのなら、使うときがない」
と、断乎として九州沖に姿を見せた敵機動部隊を目標に出撃を命じた。陸攻18機と直衛戦闘機30機を率いて飛び立つとき、野中隊長はただ一語を残していった。
「湊川だぜ!」
結果は、まさしく全滅覚悟の、楠正成の湊川出撃そのものとなった。この九州沖航空戦は惨たる結果となった。未帰還者は野中隊長以下160名。戦果なし。桜花隊は全滅、母機の陸攻隊もほとんど還らなかった。あまりにも空しい玉砕戦であった。
“可愛いボー”に書きのこした遺書の全文
野中の遺言は「湊川だぜ」の一言だけではなかった。曽我部博士(そかべひろし)氏が発掘の、出撃を前にして愛児に書きのこした遺書がある。
「ボー マイニチ オトナチク チテルカ オバアチャマ ヤ オジチャマガ ヰラッチャルカラ ウレチイダロウ
オタンヂャウビ ニワ ミンナニ カワイガラレテ ヨカッタネ
オメデタウ オメデタウ
オトウサマハ マイニチ アブー ニノッテ ハタライテイル
ボー ガ オトナチクチテ ミンナニ カワイガラレテヰルトキイテ ウレチイ
モウチョロチョロ アルカナケレバイケナイ ハヤクアルキナチャイ
オカアチャマノ イフコトヲヨクキイテ ウント エイヨウ ヲ トッテ ヂョウブナ ヨイコドモニナラナクテハイケナイ チュキ キライノナイヨウニ ナンデモオイチイオイチイッテタベナチャイ
デワ チャヨナラ
オトウチャマヨリ ボーへ」
アブーに乗って、死地へ飛び立った35歳の猛指揮官・野中少佐にあったのは、もうそのときには、可愛いボーへの優しい心だけであったと思われる。