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 そして、ほんとうにわずかな友だけが知ることであったが、野中五郎は終生、兄四郎の写真を肌身につけて離すことはなかったという。

 いちどは野中も軍籍から身をひくことを考えたが、海軍がそれを許さなかった。海軍というより、海軍航空が、生まれながらの飛行機乗りといった野中を是非にも必要としたのである。また、野中にとって、海軍航空隊という手荒いところが、いわば天国であった。技倆(ぎりょう)を磨き、航空戦術を練ることだけがかれの生き甲斐となり、また心の深いところの傷を癒すことになった。

 その間に、世界の政治情勢は日一日と悪化し、太平洋をはさんで日米両国の関係は、対決の様相を深める一方となった。反米英の国民的熱狂は戦争待望への狂気と変わり、やがて戦争のもつ冷酷な力学が人間の良識を踏み潰していく。

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「てめえ、野中というケチな野郎で」…新入りのど肝を抜く出迎え

 野中五郎は、そうした急奔する時代の流れを背景にして、霞ヶ浦航空隊から空母「蒼龍(そうりゅう)」乗組、土浦航空隊などを経、第一線の雷撃部隊の指揮官へと急成長していった。しかも野中の指揮ぶりたるやおよそ常識からとっぱずれたアウトロー的なものとして、海軍部内でつとに有名になっていった。それは一種のやくざ、といって悪ければ、講談調の、“ベランメエ”によって象徴される乱暴この上ない指揮ぶりである。

野中五郎がかつて乗っていた空母蒼龍

 配属された部下将兵が着任すると、背の小さなくりくり坊主の野中は、

「遠路はるばる若い身空でご苦労さんにござんす。てめえ、野中というケチな野郎で、ま、奥に通んな」

 と大声でこれを出迎え、若い飛行機乗りのど肝をまず抜くのである。

 これは、あくまで部下掌握を目的とした自己演出であった、とかれをよく知る人たちはいう。実は気持のこまやかな、優しい男であったともいわれている。ではあったが、一見がさつとも思われるベランメエの野中節によって、堅苦しい裃(かみしも)をとりさり、上下の関係をぬきにした一心同体の戦闘部隊が形成されたこともまた、事実なのである。人はかれの隊を「野中一家」と呼んだし、隊員はそう呼ばれることを誇りとした。