野中の戦歴=太平洋戦争の主作戦

 この野中一家が、陸上攻撃機の主力部隊である第一航空隊に移って間もなく、太平洋戦争が勃発した。野中は部下をみだりに殺さぬことをモットーとして、戦火に身を投じていった。

昭和16年12月 比島(編集部注:フィリピン諸島のこと)のクラークフィールド飛行場攻撃、マニラ攻撃、香港攻撃
昭和17年1月 コレヒドール攻撃
同2月 ポート・ダーウィング攻撃
昭和18年5月 アッツ島艦船攻撃
同7月 ガダルカナル島飛行場攻撃
同11月 ギルバート方面艦船攻撃

 この年のこの月に野中は少佐に進級。

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 昭和19年6月“死ぬ年”とみずから決め八幡大菩薩の旗を掲げ、八幡部隊として硫黄島に進出し、サイパン島夜間攻撃。

 こうして野中少佐の戦歴をごく大づかみに見てみると、その作戦行動はそのまま太平洋戦争の諸主作戦と合致していることがわかる。字義どおり野中一家は太平洋を狭しとばかりに働きつづけたのである。

 この、参加した「大小の合戦百余回」と自称する野中少佐に、「桜花」特攻のため新編成された神雷部隊の、陸攻隊隊長を任ず、の命がくだったのは、昭和19年10月1日。もはや大日本帝国に勝利のないことが明確になったときである。

現在のサイパン島の海と空

「この槍、使い難し」…桜花作戦を痛烈に批判

 着任した“雷撃の神様”野中がただちに認識したのは、この作戦の成功率がかぎりなくゼロに近いという事実であった。特攻兵器桜花を吊すことで、母機である陸攻の航続力が3割、速度が1割減少する。敵艦隊の20キロ手前で桜花を切り離す計画になっているが、迎撃してくる敵戦闘機に親子もろとも撃墜される危険が予想された。それを振り払うには、陸攻一隊(18機)に4倍の直衛戦闘機(72機)以上が必要であるが、それだけの戦闘機が整備されるはずはなかった。つまり作戦は無謀にして愚策の一語につきる。

 野中は「この槍、使い難し」と歎(たん)じ、

「俺は、たとえ国賊とののしられても、桜花作戦だけは司令部に断念させたい」

 とかれが信頼する部下にハッキリと言った。

「司令部は、桜花を投下したら攻撃機はすみやかに帰り、また出撃するのだと言っている。そんなことできるものか。ムザムザとやられるだけだ。それくらいなら、桜花投下と同時に、自分も他の目標に体当りしてやる」

特攻兵器「桜花」

 そう口に出して死の決意を語った野中の胸中には、このとき、おのれが、国のため天皇のために華々しく散ることによって、兄の汚辱をそそぐという代償的心理が去来していたのかもしれない。少なくとも、強要の拳銃自決に果てた兄のあとを喜んで追う気持が強かったことであろう。