新東宝の戦争映画といえば、前回の『明治天皇と日露大戦争』のような、天皇を軸にした復古調の内容ばかりだという印象を持っている年配の方も少なくないかもしれない。
ただ、それは大蔵貢が社長に就任して自ら企画に携わるようになった一九五六年の『軍神山本元帥と連合艦隊』以降のこと。それ以前は、どちらかといえば、正反対の作風であった。つまり、戦地で死にゆく者たちの葛藤を描いた、反戦メッセージの強い戦争映画を作っていた。
今回取り上げる『戦艦大和』も、そんな一本だ。
まず冒頭で描かれるのは、参謀本部による会議。ここで沖縄救援のために大和を出撃させるか否かという議論が交わされる。もちろん最終的には出撃で決せられるわけだが、主戦論の参謀たちはいずれも無謀ともいえる希望的観測や役に立たない精神論だけを根拠に話を進める。そして挙句に、参謀の一人(三津田健)の「光輝ある帝国海軍の歴史の一ページを飾るべきではあるまいか」という無責任極まりない一言で、大和は片道燃料で沖縄へ特攻させられることになるのだった。
そして、そこから続く物語の大半は、静謐を貫いた演出を通して、出撃前後の兵たちの人間模様が描かれる。しかも、それらはことさらに熱く描かれることはない。勇壮さもない。BGMがほとんどない中で、淡々と描写される。そのため、そこには絶えず、間違いなく間もなく迎える「死」の予感が漂い続ける。
また、必ずしも若い兵たちの誰もが、上層部の精神論を受け入れているわけではない。たとえば西田少尉(片山明彦)は「特攻の菊水の紋章をつけて死ぬことは誇り」という同僚に「それだけじゃ嫌なんだ。もっと何かが必要なんだ」と返しており、大阪の商家出身の高田少尉(高島忠夫)に至っては大和を万里の長城、ピラミッドと並ぶ「世界三大《無用の長物》」と笑う。
そうした中で迎える戦闘シーンもまた、決して勇壮なものにはなっていない。以降の大和映画であれば、たとえば『連合艦隊』のように個々の死をドラマチックに盛り上げるところだが、本作はそうではないのだ。米軍の容赦ない攻撃の中、一人一人の命が瞬く間に失われていく。
個々の人物像がそれまで丁寧に描かれてきたにもかかわらず、その死に対して泣かせるための劇的演出は全くない。そのことがかえって、戦場のリアルな恐ろしさを生々しく伝えることになった。
本作もまた、大阪のシネ・ヌーヴォで開催中の新東宝映画まつりで上映される。この夏、スクリーンで戦争と向き合ってみていただきたい。