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「その富岡で、下の妹が死にました」

 その富岡で、下の妹が死にました。食べる物がなくて、どこかでご馳走になった牡丹杏(スモモの一種)か何かに当たってしまったんです。まだ五歳でした。キューピーさんみたいに髪の毛がクルッとしていて、きょうだいで一番可愛い顔をしている子でした。

 私は死んだ妹を背負いはしなかったけれど、空襲警報のたびに骨壺を持ち出す係でした。家の電気を消して、製糸工場の横を通って近くの川辺へ降りて、しゃがんでいるんです。そのときに「アキちゃん」って妹の名を呼ぶと、骨壺の中のお骨がカタコトカタコトいうのよ。敵機が来てビューッと飛んで行くまで、そうやって隠れていました。

 戦争が終わって、横浜へ帰りました。幸い父も、家も無事だったので、焼け出された近所の方々を招き入れ、とにかく一所懸命にただ生きてるだけでした。その頃はわからなかったけれど、いまになってみると、なんて大変な時代を潜り抜けてきたのか。でもあの頃の経験を思い出さなきゃいけないし、通ってきた道を語らなきゃいけない。あんな辛い思いを、日本人に二度とさせてはいけませんからね。

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「焼き場に立つ少年」に注目したのは、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇です。令和元年11月に長崎を訪れてスピーチしたときも、大きく印刷したパネルが横に置かれていました。ローマ教皇がこの写真で、戦争や原爆の怖さを世界へ知らしめようとしているのに、日本は何をやっているんでしょう。それが恥ずかしくて、私は憤っているんです。

 日本を守っているつもりになっている方々は、あの少年の写真を見て、絶対に戦争をしないと念じて欲しいと思います。私たちが涙を流すだけでは、どうにもなりませんもの。もしも日本が戦争のほうへ向かいそうになったら、あの写真を持って行って見せればいい。それで気付かないようなら、国を守る立場をやめていただきたい。