私生活では1986年に次男が生まれたが、その子は難病のため障害があり、生後4ヵ月で大手術を受けることになる。
その手術直前、一緒にいた妻が一瞬、席を外した。いざ一人だけで次男と向き合い、稲川の胸中には、このまま生きても本人は苦労するだろうし、もしも自分が先に逝ったら誰が面倒を見るのか……などとさまざまな思いがよぎる。ふいに、次男の鼻をつまんで窒息させて殺してしまおうかと、手を伸ばしかけたものの、手が震えて、どうしてもできなかった。手術が終わり、ベッドの上で苦しそうに呼吸をしながらも病気と闘う息子を見て、稲川は殺そうとした自分を最低だと思った。そして、彼が生まれてから一度も名前を呼んでいなかったと気づくと、何度も名前を呼び、「俺はおまえの父ちゃんだぞ!」と叫んだという。
家族と別居生活をする理由
次男の手術後も仕事に明け暮れ、1991年の元日、3日間ぶっ通しでテレビ出演をこなしたあと、ようやく帰宅したところ家には誰もいなかった。近所の人に聞けば、みんなでスキーに行ったという。しかたがないので、茨城につくった工房や、自宅近くの事務所に寝泊まりするようになり、2ヵ月ほど経って久々に家に戻ったら、鍵が替えられていた。以来、家族とは別居生活を続けている。
これについて稲川は《私は身体を張って人を笑わせてて、女房は日々、看病しながら息子の人生を背負ってた。そりゃ、関係はおかしくなっていきますよ》と説明している(『AERA』2014年9月29日号)。別居したのは妻の負担を軽減するためでもあり、稲川自身、家で妻のつらい顔を見るのが切なかったからだった。それでも離婚しなかったのは、子供たちを思ってのことだった。
夏以外はテレビに出ないと決めた
2002年、次男が生まれたときに告げられていた寿命の15歳となったのを機に、稲川はお笑いの仕事をやめ、夏以外はテレビに出ないと決めた。バラエティのタレントはどれだけ苦しくても、楽しそうに振る舞わねばならず、そんなふうに自分を殺してまで仕事をすることに疑問を覚えたからだった。
自分が良しと思える方向に切り替えたのち、《怪談のほうにのめり込むことができたのは、下の子がいたおかげだよ。あの子がいなければ、適当にテレビに出てラクしながら甘えて生きてたと思う》と感謝の気持ちを述べている(『週刊朝日』2010年9月24日号)。