「きれいに縫えよ!このやぶ医者め!」
しかし、安藤は、蔡を捕まえる前に、MP(米軍の憲兵)2人と日本警官の3人に捕まってしまった。
そのままMPのジープで、新橋の十仁(じゅうじん)病院に連れて行かれた。十仁病院は、美容整形病院である。
いざ手術に入ると、安藤は、梅澤文雄院長に怒鳴った。
「おい、麻酔なんて、打たなくていいぞ!」
安藤は、海軍時代、麻酔を打って傷口を縫うと、あとで傷口がきたなくなる、と聞いていた。
梅澤院長が、念を押した。
「そのかわり、痛いぞ」
「おれがいいと言ってるんだ!早くやれ!」
「しゃべるな!」
傷口があまり深く、開きすぎている。中の肉をまず縫い合わせなくてはいけない。それから、表側の傷口を縫うことになった。
麻酔をしていないので、曲がった針をひっかけられるたびに、頬に、荷物をひっかける手鉤(てかぎ)を打ちこまれたように痛い。
安藤は、苦痛にうめきながら、梅澤院長にへらず口を叩いた。
「きれいに縫えよ!このやぶ医者め!」
「黙ってろ!うるさすぎて、縫えねえじゃないか!」
喧嘩のようなやりとりが1時間半もつづき、手術がようやく終わった。表側を、23針縫った。
中縫いを入れると、30針も縫った。
もう二度と、カタギの世界には戻れない
手術が終わって、看護婦が安藤の頬の血をきれいに拭った。安藤は、看護婦に頼んだ。
「鏡を見せてくれ」
看護婦が、鏡を持ってきた。
安藤は、切られた左頬を、鏡に映して見た。ゾッとした。左頬に、耳の下から口の近くまで、赤黒い百足(むかで)が足を広げて張りついているようであった。
安藤は、慄然(りつぜん)とした。
〈これで、もう二度と、カタギの世界には戻れない〉
その傷は、安藤のトレードマークに
安藤は、一生入れ墨を入れる気はなかった。が、安藤にとっての今回の頬の傷は、他人に入れられた入れ墨のようなものである。生涯拭うことはできない。
安藤は、鏡の中の不気味な傷を睨みつけながら、呪いをこめてつぶやいた。
「やつを、かならず、殺してやる……」
安藤は、逃げまわる蔡をついに捕まえ、半殺しの目に合わせた。蔡は、それを機にカタギとなる。
のちに安藤は引退して映画俳優になったとき、評論家の大宅壮一(おおやそういち)と対談する。大宅は、安藤の左頬の傷痕を見ながら『男の顔は履歴書』と色紙を書いた。その傷は、安藤のトレードマークにさえなる。