「おれが挨拶したのに、どうして挨拶しないんだ」
安藤は、そのまま通り過ぎようとした。
ところが、蔡が背後からやって来て、因縁をつけた。
「安藤さん、おれが挨拶したのに、どうして挨拶しないんだ」
安藤が、このとき、「じつは、おれも挨拶したんだよ」といえば、ことなきを得た。
が、心の底にわだかまっている彼らの横暴さへの憎しみがあった。
安藤は、蔡を睨み据えて言った。
「それがどうした!この野郎……」
ことなきを得たはずが……
そういったときには、安藤の左手は蔡の襟首を掴まえていた。左の襟首を掴まえるのは得意であった。
同時に安藤の右拳(みぎこぶし)が、蔡の顔面に叩きこまれた。蔡の体は、吹き飛んだ。
安藤は、その当時右手に包帯を巻いていた。海軍時代から患っていた疥癬(かいせん、皮膚の病気)のせいである。
その手に巻いた包帯が、安藤にとっては、かえってさいわいしていた。
包帯が膿(うみ)で固まり、武器になった。相手の顔にパンチを入れ、当たった瞬間、ねじるようにすると、顔が切れる。倒れた蔡の顔も、切れていた。
安藤は、さらに蔡に飛びかかった。左襟首を掴むや、右拳をもう一発顔面に叩きこもうとした。
蔡が哀願した。
「待ってくれ!上衣を脱がさせてくれ」
安藤は思った。
〈サシでやる気だな……〉
安藤は、堂々とサシで勝負をしようという蔡の根性を見直した。
「よし、脱げ!」
安藤は、襟首を掴んでいた左手を離した。
背広やズボンは、血まみれ
蔡は、背広を脱ぎ始めた。そのとき蔡は、背広のポケットに忍ばせていたジャックナイフを、ひそかに取り出していた。
蔡の体は、安藤に対して斜めに向いていた。そのため、安藤の眼には、蔡がジャックナイフを取り出した側が死角になった。
安藤の眼に、きらりとジャックナイフの刃が映った。その瞬間、安藤は、左頬(ひだりほほ)に冷気を感じた。数秒遅れて、丸太で殴られたような激痛が走った。頬が、ぱっと開いた。押さえると、生温かい血が、どっとあふれ出た。
「ちくしょう、やりやがったな!」
安藤は、武器になるものを、あたりに探した。焼煉瓦(やきれんが)が転がっていた。右手で、焼煉瓦を拾った。
蔡めがけて思いきり投げつけた。蔡は、背を見せ、走った。安藤は、追った。
〈殺してやる……〉
蔡は、右手にジャックナイフを握ったまま、銀座の路地から路地を逃げた。安藤は、傷口を押さえながら追いつづけた。左頬がゆるんだ感じで、どうしてもいまひとつ体に力が入らない。安藤のせっかくの背広やズボンは、血まみれであった。一升もの血をかぶった感じである。
2人の姿を見た者は、
「きゃあ!」
と悲鳴をあげて、左右に散った。