昭和のヤクザ史に名を刻んだ“カリスマヤクザ”安藤昇。「安藤組」を立ち上げて昭和の裏社会と表社会を自由に行き来し、数々の伝説を残した。安藤組解散後は俳優に転身し、映画スターとして活躍。そんな安藤昇の一生を記した作家・大下英治氏の著書『安藤昇 侠気と弾丸の全生涯』(宝島SUGOI文庫)より一部を抜粋し、男女の関係になった安藤昇と女優・瑳峨三智子が破局した経緯を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)

昭和のヤクザ史に名を刻んだ“カリスマヤクザ”安藤昇 ©文藝春秋

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体重が38キロまで減り、やつれきった瑳峨三智子

 安藤は、『日本暗黒史血の抗争』の撮影が終わり、吉祥寺の瑳峨の家をたずねた。

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 安藤は、やつれきった瑳峨の姿を見て、驚いた。数カ月前より、また一段と痛々しくやせ細り、心臓が弱っていた。はっきり言って、臨終が近い人に思えた。

 かといって、見舞い客など誰ひとりとして来ない。安藤は、瑳峨の窮状を見て、あとには引けないと思った。

〈おれが、死に水をとってやろう〉

 瑳峨は、3日間40度を越す高熱を出した。体重も38キロまで減った。吉祥寺の瑳峨邸にいた安藤も、「もう駄目か……」と思うほどの病状だった。瑳峨は、高熱でうなされ、訳のわからないことをつぶやきつづけた。瑳峨は、あまりの痛苦から悶絶(もんぜつ)した。

女優の瑳峨三智子 ©文藝春秋

 それを看る安藤も、死に水をとるつもりで瑳峨を病院に連れて行った。その後、安藤は、熱心に介護をつづけた。いや、熱心を飛び越えて、瑳峨にかかりきりになっていた。安藤の所属していた太平洋テレビの清水昭社長は、安藤の瑳峨三智子への献身ぶりを証言している。

「彼女の生活費も治療費も、安藤の申し出で彼のギャラのなかからまわしてきた」

 瑳峨にかかりきりになっていた安藤は、他人からいろいろ忠告された。

「それほどすることはない、彼女には、れっきとした母親の山田五十鈴がいるじゃないか」

 確かに安藤の仕事には、マイナスだった。松竹時代は、1年間に11本の映画に出演するなど多忙をきわめた安藤も、昭和43年には、わずか2本しか出演していない。1月14日公開の『日本暗黒史情無用』と5月14日公開の『密告(たれこみ)』だけである。さらに、翌44年の初作品は、7月8日公開『日本暴力団組長』となる。

 つまり、昭和43年半ばから44年前半にかけて、人気絶頂の俳優安藤昇に不可思議な空白期間があるのである。