昭和のヤクザ史に名を刻んだ“カリスマヤクザ”安藤昇。「安藤組」を立ち上げて昭和の裏社会と表社会を自由に行き来し、数々の伝説を残した。安藤組解散後は俳優に転身し、映画スターとして活躍。
そんな安藤昇の一生を記した作家・大下英治氏の著書『安藤昇 侠気と弾丸の全生涯』(宝島SUGOI文庫)より一部を抜粋し、安藤組大幹部で「大江戸の鬼」と呼ばれ、最強の喧嘩師とも言われたヤクザ・花形敬の破天荒な人柄を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)
◆◆◆
のちに安藤の舎弟となる、佐藤昭二
昭和27年(195二年)5月7日、花形敬と佐藤昭二は、肩を並べて渋谷の栄通りに抜ける路地を歩いていた。2人とも『くるみ』で一杯飲んだあとであった。
佐藤は、岩手県で旅館を経営している家の息子であった。国士舘専門部の柔道部で、四段をとった強者であった。国士舘では、全校で1、2位を争う腕力であった。渋谷に来ては酒を飲み、国士舘の寮に帰っていた。
花形や石井の先輩で、渋谷で花形や石井を見ると、「おい、敬」「石井」と呼び捨てにしていた。佐藤も、のちに安藤の舎弟になるが、このときは、国士舘から日大に移っていた。
2人は、宇田川町のサロン『新世界』の前を、肩で風を切るようにして通りかかった。
2人の眼に、白系ロシア人のジミーの姿が入った。
ジミーは、相手がヤクザであろうと喧嘩をふっかけた
ジミーの本名は、ワジマス・グラブリ・アウスカス。日本で生まれ、日本の小中学校に通い、戦争中は、白人として収容所に入れられた。ロシア人との混血とはいえ、まったく日本しか知らなかった。終戦と同時に釈放され、暴れまくっていた。ジミーは、日本人の女房を持ち、渋谷でキャッチバーをやらせていた。不良外人で、酒癖が悪く、相手がヤクザであろうと、喧嘩をふっかける。宇田川町のキャッチバーに、片っ端から顔を出し、誰にでも喧嘩を売っていた。当時30歳であった。
ジミーは、『新世界』の経営者を足で蹴りつけていた。
佐藤が、舌打ちした。
「ジミーの野郎、また暴れやがって!」
が、花形は、ジミーを見るのは初めてであった。これまで、同じようにキャッチバーで暴れまくる花形と顔を合わせないのが不思議であった。