今回は『櫛の火』を取り上げる。一九七五年に神代(くましろ)辰巳監督が撮った作品だ。
この時期の神代監督は日活のロマンポルノで話題作を連発していた。といっても日活と異なり、これは東宝配給作品だ。本来ならば健全な娯楽作品が求められる。
ところが、だ。本作はロマンポルノ級――というより、それ以上の割合で、上映時間の多くを濃厚な性描写が占めているのである。特に前半の三十分は状況説明もほとんどないまま、主人公の広部(草刈正雄)と、恋人の弥須子(桃井かおり)、人妻の柾子(ジャネット八田)という二人の女性とのセックスシーンが入れ替わりで映し出される。
おそらく東宝の映画史全体でも、ここまでセックスを追った作品は稀有といえる。
ではなぜ、このような作品が誕生したのか。本作を企画した東宝の田中収プロデューサーに以前、その背景をうかがった。田中プロデューサーは『日本沈没』をはじめ『ノストラダムスの大予言』『東京湾炎上』『悪魔の手毬唄』『聖職の碑』といった大作映画を多く作ってきたが、本心としては現代の若者を扱う文学的な小作品に志向があり、『放課後』『青春の蹉跌』といった青春映画の佳作もプロデュースしている。
そして、『日本沈没』を大ヒットに導いた論功行賞により好きな企画を映画化する権利を東宝から獲得、本作を企画するに至ったのである。
さらに、二本立ての併映作品との兼ね合いで約三十分のフィルムをカットせざるをえなくなる。その際、説明的な描写の多くが削られたため、セックスシーンが連続する内容になってしまったのだ。
そのために、物語としてはよくわからなくなってしまっている。どのような展開になっているのかだけではなく、人物関係もよく見えない。
それは、多くの内容がカットされたのが大きいが、それだけではない。俳優にハッキリと発声させない、この時期の神代特有のリアリズム演出が色濃く出ているため、セリフがよく聞きとれないのだ。そうした芝居のパイオニアである桃井はもちろんのこと、草刈に加え、河原崎長一郎、名古屋章といった普段は明瞭な口跡の面々ですらボソボソと喋っており、神代演出の徹底ぶりがうかがえる。
そうした事情が重なり、東宝作品とは思えない実験映画のような仕上がりになった。
だからといって取っつきにくくはない。特に姫田真佐久の撮影が素晴らしく、乾いた哀愁を帯びたカメラが男女の営みを寂しくも儚く切り取る。冬枯れの景色もどこか優しい。その柔らかい世界には、長く浸りたい中毒性があった。