シニアハウスに入居を決めたきっかけ
でも、年をとって軽井沢で動けなくなったらどうしようとは思っていました。福祉の面が心配でしたし、老人ホームも多くはありません。私が親しくしていた近所の90歳過ぎの友だちも、軽井沢を離れてとなり町の施設に入りました。
そしたら、たまたま2022年の秋、一緒に仕事をしたピアニストの方から、90歳のお弟子さんが東京のシニアハウスからその方の音楽教室に通ってきているという話を聞きました。その人はシニアハウスからゴルフにも行ったりしているそうです。
なんと、偶然とはいえ、そこはお世話になった津田塾大学の学長が99歳で亡くなるまで暮らした場所で、私も何度かお見舞いに行ったことがありました。そのとき、「そうか、ここに入れば安心して死ねるんだ」と思ったのです。それにちょっと前、女優の有馬稲子さんが老人ホームから仕事に行くという話を読んで、「それいいな」と思っていました。
自分のなかで、いろいろなことが全部つながりました。シニアハウスに入れば、死に水を取ってもらえるし、そこを事務所にすれば仕事ができる。そう思ったら、もう迷いはありません。即決でした。すぐに、銀座にもっていた事務所兼自宅を売りに出したら、不動産屋さんが高く売ってくれて、そのお金をもとに入居が決まりました。
そのシニアハウスに入る1年前に、軽井沢の家も引っ越しました。35年間、軽井沢の千ヶ滝という標高1200メートルのところで暮らしてきたのですが、そこは山のなかですから、散歩に行ってもサルとキツネとタヌキしか出ません。あるとき散歩に出たら、うちの屋根の上で日なたぼっこをしていたサルの一家が私のうしろをずっとついてきたことがありました。何かされるんじゃないかと怖くなったので、立ち止まってふり向いて、大きな声で『愛の讃歌』を歌ったら、それっきりついてこなくなりました。
そんな人里離れた場所が私の性に合っていたのですが、ある日、電話で言葉が出ないことがありました。「まずい! このままボケたらどうしよう」。そう思ってすぐに、山を下りる決意をしたのです。80歳で平地の人も多い別荘地に移ってきました。私が死んだ後、そこは母校の津田塾大学に引き取ってもらって、セミナーハウスみたいに使ってもらえたらいいなと思って、そういう話をしたところです。
私は「老後」や「引退」なんていっさい考えたことはありません。でも、死ぬまでの生活拠点が固まったので、これからも仕事や活動を続けて最後の一滴までエネルギーを使いきるつもりです。