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「娘さんの住むマンションの廊下に液体が垂れていて…」

 香織の姉である井上明美(仮名・53歳)が失踪してから、2年目の夏が過ぎようとしていた。

 中部地方の某市郊外――。国道沿いにポツリポツリとファミリーレストランやドラッグストアが建ち並ぶ、どこにでもある日本の地方都市の風景が続く。

 緑の稲がそよぐ田んぼに太陽がぎらぎらと照りつけて、まばゆい光を放つ。通り過ぎるだけの人から見れば、のどかで単調で、あくびが出そうなほどの陽気に包まれている。

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 おーちゃんは3人姉妹の長女で、地元の高齢者向け病院に介護福祉士として勤務して、20年になる。現在独身。

 明美と香織は11歳離れている。香織にとって、大きいお姉ちゃんだから、おーちゃん。次女の瑠璃(仮名)は、ちいさいお姉ちゃんだから、ちいちゃん。おーちゃんが大好きだった少女マンガの登場人物の愛称から取ったもので、物心ついたときから香織はずっと長女の明美のことをそう呼んでいた。

 おーちゃんは20年にわたって、家族の誰にも知られずに、ゴミ屋敷の中で生活してきたらしい。「らしい」という、曖昧な表現になってしまうのは、一体いつからおーちゃんの家がゴミ屋敷になったか、正確には誰にもわからないからだ。

 おーちゃんの住むマンションの管理会社から、保証人である父の清(仮名・85歳)のもとに1本の電話があったのは、2017年6月17日のことだった。清は、高校の元教員で、定年を迎えてからは、もっぱら近所の図書館に通い本を読むのが日課で、その日も車で向かおうとしていた。

「お宅の娘さんの住むマンションの廊下に液体が垂れていて、ご近所からクレームが来ている。すぐに来て、掃除して欲しい」

 電話口の男性は少し困ったような声で、清にそう告げた。明美とは3カ月前に孫の太鼓の発表会を見に行った際に会ったきりだったが、その時は元気そうでいつもと変わりなかった。

入口付近には黒々とした“何か”が筋になって流れていた

 妻の和子(仮名・77歳)が外出していたため、清は、まず末っ子の香織に電話をすることにした。

 次女が同じ市内に住んでいたが、結婚して子供が3人いる。そのため、できるだけ面倒には巻き込みたくなかった。その点、香織は頼りにできた。香織は、20代の頃に離婚をしてからは独身で、個人病院に医療事務として勤めながら、実家の近くで一人暮らしをしている。休日にはよく帰ってきて、高齢となった自分たちの世話を何かと焼いてくれるのだ。

 その日の夕方、仕事が終わったばかりの香織に事情を説明して、清と香織はおーちゃんのマンションに向かった。実家から車で15分ほどの場所に、おーちゃんの住んでいるレンガ模様のサイディングが張られたマンションがある。

 おーちゃんのマンションの中まで入ったことは最近なかったが、毎年行く家族旅行や食事会などでおーちゃんをマンションの前まで送り迎えすることはあった。だから、家族の誰もが、1997年に建てられたその鉄筋コンクリートの4階建てマンションへの行き方を知っていた。

 おーちゃんの部屋はマンションの1階角部屋である。

 まず、目についたのは、部屋の入り口付近に放射線状に広がった液体だった。

 ドア下のわずかな隙間をつたって、共有廊下のコンクリートのほうにまで、まるで醤油をひっくり返したかのような黒々とした液体が、筋になって流れていた。

 その液体は、タールのように粘り気があり、果たして油なのか血液なのか、香織と清には見当もつかなかった。

 父娘は、これはただ事ではないと感じ、掃除道具を取りに一旦家に帰ることにした。

 バケツとモップと金ダワシを持って慌てて戻ると、2人で得体のしれない液体を何度もごしごしとこすり続けた。しかし、ゼリー状のドロドロとした粘着質の液体は、どんな洗剤を撒いてもなかなか落ちなかった。

 その間に、香織は、おーちゃんの携帯に何度も電話した。だが、部屋の中にいるのかいないのか、留守電になって繋がらない。そこで勤務先に電話すると、おーちゃんは昨晩から夜勤のシフトで、早朝に職場を出たことがわかった。そして、翌18日のシフトは休みになっていた。