『戦う江戸思想 「日本」は江戸時代につくられた』(大場一央 著)

「グローバリゼーション、新自由主義、ボーダーレス社会……。新たな価値観が次々と現れる現代社会にあって、私たちは自分を見失っていないでしょうか。自分自身の物の考え方や生活の中に生き続ける思想を掘り起こすことで、日本人の“物語”を取り戻すきっかけになればと思っています」

 中国思想、日本思想研究者である大場一央さんの新著『戦う江戸思想』は、日本に展開した思想を通史的に整理する。とりわけ江戸時代、武士ばかりか庶民にも広く学ばれた「朱子学」こそ、我々の思想的根本となった、と述べる。

 ……朱子学。難しそうと敬遠される方、もうしばしお付き合いを。理屈には深入りしない。要するに、徹底した合理的思考で社会通念や常識を問いなおし、社会と人生を自力でつくりあげていく思想だという。

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「社会のあり方、人の生き方についての一般原理を『理』と呼びますが、全ての人が理を問い続ければ、実生活上の規範が常に無限に再生産されて、調和した社会が実現する。裏返せば、人は職場や家庭における生活に向き合い続けることで社会に参加し、立場と役割を担うことで居場所が与えられる。全国民が経済的に自立し、精神的に自律した社会を目指すのが、朱子学の根幹です」

 江戸の為政者はこれを空論に終わらすことなく、具体的な政策として実行した。「実現するための戦い。それこそが“戦う思想”です」と大場さん。経済や人々の暮らしと思想を結び付けた説明は、本書の白眉である。

「国民の多数を占める中間層的な生活モデルを作り遍く広めるべく、国家経済を整備したのが新井白石でした。国民生活に必要な物資を安定供給するため、通貨発行量を調整して物価を安定させた。さらに、淀川の開削事業や廻船航路の開設といったロジスティックス戦略を進め、各地の商品を円滑に国内に流通させ、日本経済を役割分担によって統合しようとしたのです」

 ユニークなのは、個々の思想の真髄を凝縮した一言を選び、史伝を付したことだ。たとえば、「田楽の 串々思ふ 心から 焼いたがうへに 味噌をつけるな」という狂歌、その作者は――。

大場一央さん

「寛政の改革を主導した名宰相松平定信です。火事に狼狽して不確実な報告を上げる家臣に与えたもので、せっかく焼けた田楽に味噌をつけるように、余計なことを考えてあれこれいじると失敗するぞとの意味。じっくり観察すれば、自らの偏った見方で歪んだ物事に、本来の道筋が見えてくる。洒脱にして合理的な思考の持ち主でした。都市と農村の人口の不均衡という社会問題には、貸出金の利率引き下げ、借金帳消しという金融政策と、借金返済の猶予、児童手当の給付、種もみの無償供与などの公益事業で解決しようとしました。白河藩主時代には、米沢藩との合同お見合いを実施して、マッチングを成功させたことも。国民の生活の安定が第一に考えられていました」

 白石にせよ、定信にせよ、その施策の根底にある考え方は、現代にも示唆的だと大場さんは言う。現代への透徹した視線。本書のもう一つの特徴である。

 最後に、もう一人、ある人物の言葉を紹介したい。「真骨頂とは何ぞ。忠君愛国の日本精神是れのみ」。

「なんと悲壮感が漂う言葉でしょう。日本人が自らの道徳倫理を否定し、物質万能の西洋化に邁進していくことを憂慮したある遺書の一文です。多様な価値観が雪崩れ込む現代への警鐘のように思えてなりません」

おおばかずお/1979年、北海道生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。専門は中国思想、日本思想、陽明学。現在、早稲田大学、国士舘大学、國學院大學非常勤講師。著書に『心即理――王陽明前期思想の研究』『武器としての「中国思想」』がある。