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「大森山人」とは時事新報の編集総務だった和田日出吉記者の雅号。和田は二・二六事件(1936年)の青年将校と近く、事件の際、現場の1つとなった首相官邸に一番乗りした人物だ。のちには満洲新聞の社長を務め、女優・木暮実千代の夫としても知られる。

後年のそうそうたる財界人の写真が掲載

 記事には1人の人物の周りを10人の顔が取り巻く写真が添えられている。中央の人物は東京株式取引所理事長などを務め、当時は「財界の世話役」、のちには「大御所」と呼ばれる男爵・郷誠之助、周りの人物は中嶋のほか、戦後、運輸相となる永野護、戦後、厚生相(現経産相)や小松製作所会長を務める河合良成、戦後の開発銀行総裁で「影の財界総理」と呼ばれた小林中といった、後年のそうそうたる財界人が。読売新聞の正力松太郎社長もいた。

帝人事件に火をつけた時事新報の「番町会を暴く」

 時事新報は前日の1月16日付に「和製タマニー 『番町會』を暴く 明日朝刊より連載」という社告を掲載。その内容が意図をよく示している。

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「政党と政商の結託暗躍はあらゆる社会悪の源となり、ついに五・一五事件を誘発して非常時内閣の出現を見たことはあまねく知るところ」
 

「ここにわれらは、わが政界財界の陰に奇怪な存在を聞く。いわく『番町会』の登場がそれである」

 

「既に彼らのあくなき陰謀の一端は、さきに商工会議所乗っ取り、近くは帝国人絹の乗っ取り、神戸製鋼所株の払い下げ、あるいは政民連携運動となって世人を戦慄せしむるに至った」


「本社はこの利権の伏魔殿の策謀に対し、忌憚(きたん)なき摘発を加え、もって社会の批判に訴えることにした」

 海軍青年将校らが犬養毅首相を殺害した「五・一五事件」の発生は、前々年1932(昭和7)年。「政民連携運動」は、五・一五事件以降、政党内閣から海軍出身の穏健派を首班とする「挙国一致内閣」(「中間内閣」)に移行し、当時の2大政党、立憲政友会と立憲民政党が協力した体制を指す。