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「帝人事件」当時、時事新報社長の考えは…

 時事新報は、福澤諭吉が創刊した戦前五大新聞の1つ。代々慶應義塾の牙城で、当時は鐘紡(現カネボウ)社長の武藤山治が社長を務めていた。有竹修二『一業一人伝 武藤山治』(1962年)は「番町會を暴く」は「武藤の発意によるものだった」とする。それを受けて和田が執筆。和田は安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言 中』(1966年)で「当時の資本家たちは資本主義の徳性を忘れて、単なる私盗的な、ゆがんだ資本主義的方向に入っていると武藤さんは見ていたと思います」と語っている。他の資料を見ても、動機は武藤なりの正義感だったように思える。

昭和7年に政界引退後時事新報社長となり、帝人事件を報じた武藤山治(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

 帝人事件の骨子はこうだ。神戸の商社・鈴木商店は第1次世界大戦中に急成長して財閥となったが、1920(大正9)年の「戦後恐慌」などのため1927(昭和2)年に倒産。同商店は融資の担保として子会社、帝国人造絹絲(現帝人)の株22万株を台湾銀行に入れていたが、値上がりしたため、鈴木商店の元「大番頭」ら多くが買い受けの申し込みをしていた。その中で、番町会が当時の黒田英雄・大蔵次官らと結んで10万株を譲り受け、大蔵省や台湾銀行幹部に帝人株を分配したとされた。

 4月中に永野、小林らが逮捕され、自供から5月19日、黒田次官らも逮捕された。同日付の東京朝日号外は「帝人事件白日下に暴露す 疑獄史上稀に見る巧妙なる背任瀆職(とくしょく) 事件更に飛躍的發(発)展か」と報道。 
*瀆職=汚職

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事件の全容を示した東京朝日の号外
ドラマに登場する新聞にも「白日下に暴露す」と、東京朝日と同じ文言が見出しに使われた(NHK『虎に翼』公式Xより)

 “火付け役”の時事新報は号外で「巨人武藤()いて七旬 聖戰(戦)遂に最後の勝利 司直の手財界惡(悪)を打つ」「正義の前に敵なし」と武藤山治の写真をトップに置いて“凱歌”をあげた。
*七旬=70日のこと

火付け役の時事新報は武藤山治の遺影を載せて「正義」を誇った

 武藤はキャンペーンが続いていた3月9日、鎌倉の自宅近くで狙撃され、翌日死去した。帝人事件とは無関係だったとされる。