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また、端島ではいつも隣り合わせだった高波とも無縁だったことは、木下さんにとって大きなことだった。「時化(しけ)におびえる必要がないというのは、不思議な気持ちだった」。

長崎市内での暮らしは、「どこへでも地続きで行けるから魅力的だった」と話す一方で、「島での生活は本当に楽しかった」と改めて振り返る。とりわけ「島を離れる日」は今でも忘れられない。

「普通は桟橋で友達が見送ってくれるんだけど、その日は誰もいなくて。でも、船が島を離れると、岸壁に『端島忘れるな』と書かれた横断幕を掲げた、クラスメイト全員の姿が見えたんです。もっと友達と一緒にいたかったから、出ていきたくなかったのが当時の僕の本音ですよね」

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神社の祭りやメーデー、夏祭りは島をあげて盛り上がった

軍艦島では、神社の祭りやメーデー、夏祭り、運動会、文化祭など、行事はすべて全島をあげて盛大に行われていた。中でも毎年4月3日に行われた、大山祇神を祀る「山神祭」は、島民にとって最も重要な祭りだった。ヤマの神である大山祇神を祀る端島神社は、常に危険と隣り合わせで働いている炭鉱員や、その家族にとっての心の拠りどころだった。祭りの日は、神主の祈祷を受けた神輿を大人たちが担ぎ、島内を練り歩いた。

そのあとを子どもたちが担ぐ樽神輿がついてゆく。笛や太鼓の音色に、担ぎ手の威勢のよい掛け声が響き渡り、朝から島内は大盛り上がり。24時間フル稼働で行われていた坑内での仕事も、この日ばかりは休みとなったそうだ。午後になると、女性は奉納踊りを、子どもは相撲大会などの各種催し物も行われた。

全島民が参加していた盆踊り、島民オリジナルの「端島音頭」

毎年5月1日に世界各地で行われている労働者の祭典「メーデー」も、軍艦島の一大イベント。島民のほとんどが主催の端島労働組合関係者だったため、みんなが楽しみにしていたという。前夜祭ではダンスパーティや歌合戦、時にはラジオを真似た「部会対抗ラジオ人気番組大会」などが行われ、これもまた大盛り上がりだった。当日は、迷路のように入り組んだ坂道や、恐ろしく長い「地獄段」などを、時には家族連れでデモ行進をして集会が行われた。狭い島内を、声を上げながら練り歩く様子は圧巻だったという。