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「6畳と4畳半の二間に、両親と祖父、兄弟5人の家族8人で暮らしていました。48号棟に入居した当時はたいした家電もなくて、高校までは毎朝、かまどで薪を燃やしてご飯を炊いていました」

当時、端島といえば日本最先端の環境が整った先進的な生活だった、というイメージで語られることが多いが、家庭によっても多少異なっていたのだろうか。「父親が二番方(夜勤)の時は、帰りが早朝になるので、母は毎朝かまどでご飯を炊きながら、寝ずに父の帰りを待っていました」と石川さん。徐々に電化が進み、昭和30年代後半には家電も揃っていたという。

東京ドーム1.3個分の島内でお祭りなどのイベントも開かれた

毎年4月3日に行われる「山神祭」で参加した「奉納相撲」についても振り返る。「小学校低学年の頃は、よくおふくろに『相撲行ってこい!』と言われて、いやいや参加していました(笑)。大人部門には番付もある、わりと本格的な催しで。昔、端島小中学校のグラウンドに屋根付きの土俵があったんですが、終戦の年に、昭和の大横綱『双葉山』が慰問に来た際に作られたものじゃないかな」

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電気屋の店番や、夏季の殺虫剤散布など、島内ではさまざまなアルバイトも経験した。中でもユニークなのが、小学生時代にお小遣い稼ぎでやっていたという“虫の捕獲”だ。

「ハエは1円、アマメ(ゴキブリ)は2円、ネズミは30円とかだったかな。役場に持っていくと買い取ってくれるの。ハエはね、映画館裏のゴミ捨て場にいっぱいおるわけよ。そこでハエ叩きでやっつけたハエをマッチ箱に詰めて持って行きよった」

人口密度の高い端島では伝染病なども流行しやすいため、こうした取り組みをはじめ、「島民たちの衛生観念はとても高く、島内はいつも綺麗だった」と石川さんは話す。島民はみな島をきれいに保とうという志で生きていたのだ。

少年時代を端島で過ごし、アパートの屋上で「ゴロ野球」をした

端島唯一の映画館「昭和館」の映写技師をしていた父親のもとに生まれた木下稔(みのる)さん。1953(昭和28)年から中学2年生になる1966(昭和41)年までを、端島で過ごした。