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4人姉弟の2番目となる木下さんが生まれた時に、父親は、より待遇のいい炭鉱夫に転職した。「母親に連れられてよく詰所まで父を迎えに行きました。父は喜んでくれたけど、僕は『この人誰だ⁉ さらわれる!』と怖かったのを覚えています(笑)。坑内から上がってくる人たちは目と歯以外は顔まで真っ黒で、誰が誰だかわからなかったから」

少年時代は、特異な環境を活かした端島ならでの遊びを楽しんだ。

「小学生の頃は、アパートの屋上でゴロ野球をしました。屋上は広かったけど、かまどの煙突が等間隔に並んでいてジャマでね(笑)。ボールを高く打つと煙突に当たるから、地面を転がすようになったんです」

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屋上からボールが地面に落ちて、ボールをなくすことはしょっちゅうだった。ボールがなくなれば、女の子に混じってゴム跳びに興じたそう。

島では「かくれんぼ」でどこの家に入っても怒られなかった

夏になれば、遊泳禁止だった海で、大人たちに怒られないよう隠れて遊んだ。波が高く海流も速いため危険とされていたが、高波を利用した岸壁の上がり方や、「バタバタするから沈んでいくんじや。波に任せろ」と泳ぎ方を先輩から教えてもらったという。かくれんぼはどこの家に入っても怒られなかった。子ども同士だけでなく大人との関係も密接で、「みんなが家族のようだった」と振り返る。

お風呂は共同浴場だったが、戸別に風呂が備わる、三菱の幹部職員用社宅・3号棟に同級生が住んでいたため、時折入らせてもらうこともあった。当時、共同浴場は鉱員用を除いて3カ所あり、中でも木下さんのお気に入りは、8号棟に備わる「岩風呂」だ。

「ほか2カ所は地下にあったのですが、岩風呂だけはちょっとだけ高台にあってね。海が見渡せるとか眺めがいいわけではないけれど、『外が見える』ことがうれしくて。露天風呂のような感覚で入っていました」

島を去る日、岸壁に「端島忘れるな」と書かれた横断幕を見た

1966(昭和41)年に一家は長崎市内へ転居。端島と違い、家賃や光熱費など生活に関わるすべてにお金が必要である環境に、慣れるまでに時間がかかったという。「一番驚いたのは、お金を払って銭湯に入ること。端島の風呂と同じように、浴槽からジャバジャバと湯を汲み出して体を洗っていたら怒られたしね」と木下さんは笑う。